乱雑さ(エントロピー)と雑音(ノイズ)の隠ぺい

 政治についてをあつかった漫才をする。お笑いコンビのウーマンラッシュアワーは、テレビでそうしたのを披露したという。政治についてをあつかうのは、漫才やお笑いのネタとしては主流ではないものだろう。やりづらいというのもありそうだ。

 へたに政治についてをあつかうと、上からにらまれるかもしれないし、まとを外してしまうかもしれない。なので危険性がある。危険性の高さと利益の高さは比例するところがあるから、そこをねらって行くのは勇気があることである。

 日本では、あまり政治についてがお笑いにされるのがない。政治以外のほかのことについてはお笑いにされることが多い。そうしたのをふまえてみると、政治についてをお笑いにするのは既知ではなく未知であると言えそうだ。誰もやったことがないというわけではないだろうけど、どちらかといえば既知ではなく未知だというわけだ。未知なものには価値がある。

 漫才では問答の形式がとられるので、対話になる。この問答や対話というのが、現実の今の政治でいちじるしく欠けている点だろう。それを思いおこさせてくれるのがある。問われても、きちんと答えないではぐらかす。問いそのものを封じてしまう。そんなふうになってしまっている。多少はしかたがない面もあるだろうけど、目にあまるものである。

 漫才などのお笑いで政治をあつかうことで、やりようによっては異化作用が見こめる。異化作用がはたらくことによって、日ごろ慣れ親しんでいる認識(recognition)を改めることにつながる。認識というのは知ることだが、これは同化となるものだ。そうではなくて異化であれば、見ること(seeing)につながる。見ることは明視といわれるものである。覚醒させるために、衝撃を与えるようにするものだ。

 言と行が一致するのではなく、そのあいだに落差が生じている。そうなのであれば、そこに問題性(プロブレマーティク)があるということができる。あたかも言と行が一致しているかのように言うのであれば、それはイデオロギーにほかならない。そうしたイデオロギーにとって都合の悪いものを、乱雑さであるとか雑音であるとかして抑圧したり排除したりするのであればまずい。そういった乱雑さや雑音は、非同一なものである。同一するのをかたくなにこばむ非同一なものを切り捨ててしまうのではなく、それと向き合うようにすることがいりそうだ。

愛があるからということで、嫌がらせになってしまってはまずい(愛だけではなく、距離を保つということでの尊敬ももたないとならない)

 性的いやがらせと、力関係でのいやがらせがある。そこでは、権力や権威がかかわっていることがある。権力とは他を支配するものとしてはたらく。

 権力は他を支配するものとしてはたらくものだが、その支配が正しいものではないために受け入れられないのであれば、暴力へと転じる。暴力とは排除である。可傷性(バルネラビリティ)をもつ弱き者が悪玉化されたり被害をこうむったりする。力(might)と正義(right)とが分裂するようなことになる。

 権力や権威をもっているのだとしても、それを当然だとか必然だとかとしない。あくまでも偶有性によっているというふうに見なす。そうした心がけがあると、権力や権威を笠に着ていばってしまうのを減らすことにつなげるのが見こめる。立場を固定するのではなく、反転させられるようにする。

 権力や権威は、まちがった方向に向かうと、勢いに乗じたおどしとなることがあるという。こうしたふうにならないように気をつけないとならない。勢いというのは時間が経つことで変化して、消長(増減)するものである。形勢が変わることがある。これは、過大化と過小化の両極があるのをあらわす。この両極は、人間が過剰な活力をもっていることによっておきるものである。

 権力や権威は絶対のものではなく、ある一つの根拠によっているにすぎない。その根拠を絶対化するのはできづらい。完ぺきに基礎づけすることが困難なものだ。なのでごう慢(ヒュブリス)におちいらないように気をつけないとならない。できるだけ自分を相対化してゆくことがいる。そのようにできればさいわいだ。

ヘリコプターの物騒さ

 沖縄県の小学校の校庭に、上空から窓が落ちてきた。その窓は、重さが八キログラムもあるものだという。上空に飛んでいた、アメリカ軍のヘリコプターである CH53 の窓であり、それが落下してきたのだ。

 小学校の校庭には小学生の児童がいたが、さいわいなことに落下してきた窓に直撃することはなかった。窓の破片が体にあたって軽傷を負ったと思われる児童がいたが、確認をしたところけがはなかったそうである。

 このできごとについて、ウェブでは、ねつ造なのではないかとか、大げさにさわぎすぎだといった声が一部で投げられている。ねつ造かどうかについては、NHK や各種の大手報道機関で報じられているのがあり、そのおそれは低い。本当のことだと見てよいものだろう。

 アメリカ軍のヘリコプターの窓が、沖縄県の小学校の校庭に落下してきた。まず、これについては動かない事実と見てよさそうである。このアメリカ軍のヘリコプターは、沖縄の普天間飛行場に所属するものなのだそうだ。普天間飛行場はアメリカ軍によるものだ。

 窓を落下させたのにもかかわらず、なぜアメリカ軍に罰がくだされないのだろう。そこが引っかかる点である。何らかの罰がくだされないのであれば、また同じことがくり返されてもおかしくはない。再発防止の策をとることも欠かせないが、それとは別に、罰がくだされるのがいる。それがないと、応報律の点から見るとちょっとおかしい。ものすごい厳罰が与えられるのではなくてもよいだろうけど、まったくおとがめなしというのは腑に落ちない。

 沖縄県の小学校の校庭に窓が落下したことで、その小学校の関係者や、沖縄県に住む人たちに心理の悪影響を与えた。へたをしたら、直撃を受けて、人がけがを負ったか死んでいたかもわからない。これを重く見ないで軽んじてしまうのであれば、沖縄県とアメリカ軍(および日本政府)とのあいだに価値のずれがおきざるをえない。沖縄県は、アメリカ軍(および日本政府)にたいして信頼がもてなくてもまったく不自然なことではないと言えそうだ。

学生が集まらないという兆候

 会社に学生が集まらなくて大変だ。そうした報道機関があるとするなら、政治や経済のニュースがステレオタイプにおちいっているからではないか。自由民主党安倍晋三首相は、このように述べている。地方の新聞社に属する幹部の人たちの集まりにおいて語ったことであるという。

 会社に学生が集まらなくて大変なことと、政治や経済のニュースがステレオタイプにおちいっていることとは、はたして相関することなのだろうか。そこがちょっと疑問だなというふうに感じた。この二つの現象は、相関していないというふうにも見られる。政治や経済のニュースがステレオタイプであったとしても、会社に学生が集まっていたこと(時期)もありそうだ。

 政治や経済について、ステレオタイプにおちいらないようにするのはよいことだ。もしそれができればという話ではあるわけだけど。ステレオタイプというのは印象の固定化である。これは報道機関がつくりあげてしまうこともあるし、政治がそうすることもあるし、群衆がそうすることもある。ちなみに、報道機関による(政治や経済の)ニュースがステレオタイプにおちいっていると見なすのも、それが固定化されてしまえば、ステレオタイプになりかねない。

 ソーシャル・ネットワーキング・サービス(SNS)などが発達した時代に、若い人たちは多様な情報を集め自分で判断している。それが自民党への支持の多さとなっているという。首相はこのような見かたをしているようだけど、はたして本当にそうなのだろうか。それとはちがった見かたもできそうだ。

 いまの時代は、ひと昔前とはちがい、基本となる座標軸みたいなのがもちづらい。細分化されている。大きな物語が実質として無いなかで、それでも幻想による大きな物語が求められている。その需要を満たすための供給として、一つの党が強くなっているのではないか。幻想でしかないのはうすうすわかってはいるが、それでも不確実さに面と向かって向き合うよりはいくらかましである。そうした判断がされているような気がする。あくまでも主観の憶測にすぎないものではあるが。

 先行きの見えづらい不確実な時代には、日本では排外(排斥)のあり方が顔を出してきやすい。あるものを排外することによって、秩序を保とうとするのだ。そのような排外の空気がまん延してしまっているのが、憎悪表現(ヘイトスピーチ)の行ないなどにかいま見られる。そうした空気にのっかるというか、悪い言い方でいうとそれとなく利用することによって、一つの党が強くなっている。邪推でしかないのはたしかだが、そうしたのもあるかもしれない。

 地方または都市にある報道機関に、学生が集まらないことの原因を帰属させてしまうのはどうなのだろうか。それだと会社に要因があることになってしまう。それもあるかもしれないが、状況に要因をおくこともできる。超少子高齢の社会による影響は無視することができそうにない。また、中央集権の権力のあり方になりすぎていることの弊害もありそうだ。あまりお金もうけにはつながらないが、社会の中で意義のあることが、成り立ちづらくなっている。そうした地味ではあるが意義のあるものを見抜く目を失いつつあるのではないだろうか。

番組の側の理法があり、BPO の理法があるとすると、どちらかだけが正しいとはなりづらいから、少なくとも投げかけられた批判に耳を傾けられればよい

 誹謗(ひぼう)中傷には屈しない。その見解を変えることはない。テレビ番組のニュース女子は、そのようなあり方をとるのだという。これは、放送倫理・番組向上機構(BPO)からの番組への勧告にたいして、番組の側が応じたものである。

 今後も誹謗中傷に屈することなく、日本の自由な言論空間を守るため、良質な番組を製作してまいります。番組の側は、このように言っている。はたして番組によるこの見解は正しいものなのかどうかをあらためて見ることができそうだ。

 番組の側は、誹謗中傷に屈することなく、日本の自由な言論空間を守るとしている。また、BPO の勧告について、言い分を聞く必要はないともしている。これは、ニュース女子だけではなくて、ほかの番組や報道機関にも当てはまるようにすることができる。とすれば、二重基準になってしまいかねない。ほかの番組や報道機関もまた、ニュース女子が示している見解と同じことを言うことができるはずだ。形式論としてはそれが許されるはずである。ニュース女子だけが特別あつかいされるのではないのだとすれば。

 番組の側が目ざしているとされる、良質な番組をつくるためには、いったい何がいるのだろうか。その一つとしては、製作をする側がもっているであろう認知の歪み(バイアス)をできるだけもたないようにするように努めるのがある。そうして努めるのであれば、BPO からの勧告を退けるのではなく、なるべく聞き入れるようにするのがよい。勧告を頭から退けてしまうと、番組の側がもっているであろう認知の歪みが修正されづらい。維持されてしまう。

 良質な番組をつくるためには、独断のまどろみになるべくおちいらないようにすることもいりそうだ。独断をもってしまうと、そこから偏見が生み出される。こうなってしまえば、良質とはいえず、逆に悪質とさえいえてしまうだろう。そうしたようにならないためには、できるだけ懐疑するのがのぞましい。人間が営むことには、その一つひとつの各段階において、それぞれに誤りをおかしかねない、とするほうが無難である。

 番組の側は、BPO からの勧告にたいして、次のように応じているという。断定するものではなく、疑問として投げかけており、表現上問題があったとは考えておりません。これについては、疑問として投げかけているのなら、断定をするよりかはましなのがある。しかし、断定をしていず、疑問として投げかけているからよいとも言い切れそうにない。というのも、修辞疑問(文)というのがある。これは、疑問の形をとってはいるが、一つの答えを強いるようなものである。開かれた疑問ではなく、閉じた疑問になってしまっているのだ。疑問を投げかけるのであれば、できれば開かれたもののほうがのぞましいだろう。

殺害生産力(軍事力)の増強

 核兵器は、必要悪ではなく、絶対悪である。ノーベル平和賞の受賞の演説で、サーロー節子氏はそのように語っていた。これはまさしくまっとうなことを言っているという気がする。はたして人間は核兵器とともに共存できるのかというのについては、疑いをもたないとならないところがありそうだ。人間と核兵器とは共存ができないとすれば、核兵器をなくして行かないとならない。

 日本の政府は米国製の戦闘機を数十台ほど購入するという。アメリカの防衛産業はそれによって潤っているのだという。戦闘機の購入は、日本の防衛のためということなのかもしれないが、そのいっぽうで、悪い言いかたではあるが、アメリカの防衛産業を富ませることになってしまっているのではないか。

 はたして、軍事の設備を増強するのは、いまの日本にとってほんとうに必要なことなのか。そこが引っかかるところである。ほんとうに必要ではないのに、それを増強しようとしているのではないかとの疑いをさしはさめる。かりにもしほんとうに必要だということであったとしても、それを許容することができるのかの点もおろそかにできない。許容できるかどうかは、金銭の使い方や人道などの面においてである。

 軍事の設備をもつのは、それが攻撃のためのものであるのなら、殺害生産力を高めることになる。そうしたのを整えるのは、まわりから攻撃されかねないような危険性が高まっているからといった理由があげられる。その理由はまったくまちがったものではないにせよ、軍備拡張の競争をまねきかねないものである。

 まわりからの攻撃の危険性が高まってるのが原因であるとして、その結果として自分たちの軍備の設備を増強する。この原因と結果は、反転させることができる。自分たちの軍備の設備を増強したいがために、まわりからの攻撃の危険性を声高に叫んであおっている。そうしたおそれもある。この連関は安全を呼びよせるものとは言い切れず、危険性を呼びよせてしまいかねない。そこが危ぶまれるところだと言えそうだ。

 核兵器による、核抑止力の意見があるのもたしかだ。これをうったえるとして、それが頭からまちがっているとは言い切れそうにない。相手が攻撃してくるとしたらこちらもまたそれに応じて反撃するという、相互確証破壊の考え方もあるという。こうした抑止のあり方は、一つには、物理の力であるハードパワーによりすぎているのがある。物神崇拝である。それに加えて、うまくいっても、大きな戦争がおきないといった消極の平和がのぞめるのにすぎないものであるという。現実にうまくゆくともかぎらず、その点については不確実である。

 非物理の力であるソフトパワーをもっと使えたらよいのがありそうだ。これは一見すると非力のようではあるが、けっしておろそかにはできないような力をもっていると見なせる。物神崇拝におちいらないでもすむ。物質の力に頼るのをいっさい止めよ、というのは極論であり理想論である。そこまでは行かないとしても、物質の力に依存しすぎてしまうのに歯止めをかけるように努めることは少しくらいはできるだろう。そのようにできれば、(うまくいっても)消極の平和しか見こめないのから脱せられて、積極の平和につなげてゆく見こみが少しはもてそうなのがありそうだ。

絶望職場とは、職場だけに限られたことではないのがありそうだ

 絶望職場のにない手たち、と題する番組が放映された。これは、外国からやってきた技能実習生が、日本でどのように働いているかの実態を調べたものである。この番組は見ていないんだけど、ウェブで伝え聞くところによると、色々とひどいあつかいの実態が浮きぼりにされているようである。

 月の残業は一九七時間にものぼる。月給は三万円しかもらえない。休みは半年に一日だけしかない。このようなひどいあつかいを技能実習生は受けているというのだ。すべてがすべてこうだというわけではないかもしれないが。

 あるところでは、技能実習生たちに、日本人の雇い主がこのように言い放つ。お前たちは、前の会社に捨てられた犬だ。そして、もう中国に帰れ、お前ら、などとも言う。さらに、雇い主や日本人は人間だが、技能実習生は人間が(と)ちがう、といったおかしな線引きをしているところもある。

 あたかもブラック企業で労働者を使い捨てるようなしうちに通ずるようである。絶望職場というのはまちがったいい表し方ではなさそうだ。そこには希望がなく、正義もない。弱者への排除と差別が横行してしまっている。

 すべてではないのかもしれないが、それをふまえたうえでも、技能実習生の人たちへのひどいしうちは、そのまま放っておいてよいものとは言えそうにない。これは技能実習生の人たちだけにかかわることではなく、日本という社会そのものの生きづらさや息苦しさを象徴していると見なせそうだ。

 外から日本にやってくる人たちを呼び寄せるのであれば、人間としてふさわしいきちんとした処遇をすべきことは明らかである。それができないのであればはじめから呼び寄せるべきではない。

 どのような人間であったとしても尊厳をもつ。これは、価格とは区別されることである。尊厳は質であり、価格は量である。人間の値うちとして、価格である量ではかられるだけなのであれば一元論となるのでまずい。(量でははかれない)尊厳である質が切り捨てられてしまう。

 まずは日本にいる日本人をいちばんに優先すべきだ、という意見もあるかもしれない。これは頭から否定されるべきものではないだろうが、自民族中心主義になりかねないところがあるので、個人としてはあまり賛同することができない。外から日本にやってきた人たちは、甘い言葉につけこまれてだまされてしまったところがあるとすると、最弱者であるとも言える。そうした最弱者がひどい抑圧や支配や搾取をこうむるようであれば、その社会は全体としてきわめて非人間的であると言ってもさしつかえがない。

 東京では二〇二〇年に夏の五輪が開かれる予定であり、そこではおもてなしが一つのありようとして言われている。このおもてなしをなぜ技能実習生の人たちに向けられないのだろうか。その点が残念である。外からの客を迎え入れるという点では同じことなのだから、こっちではやる気があるがあっちではやる気がないというのではおかしい。

 技能実習生を日本に呼び寄せるのは、何を目的としているのだろうか。この目的については、一つには、外からの客を迎え入れるための練習に当てることができる。現実にはそれがまったくと言ってよいほどできていないのではないか。きちんと客を迎え入れることができれば、その客は友になるのだから、それは日本の社会にとってよいことだ。多様性をもつことにつながりそうだ。

男らしさのあり方への反命題をあらわすものとして受けとることもできなくはなさそうだ

 フィリピンに、慰安婦像が建てられた。これは、フィリピンの首都のマニラに置かれているという。像の台座には、一九四二年から一九四五年の日本の占領下で虐待の被害にあったすべてのフィリピン人女性の記憶、などと記されているそうだ。

 日本大使館はこれを受けて、両国の関係によくない影響をおよぼしかねないとして懸念をあらわしている。この懸念については、まったくまちがったものとは言えないかもしれないが、両国の関係によくない影響をおよぼすかどうかは、その当事者の一方である日本の受けとり方によってちがってくるところもある。

 この問題と間接にかかわりそうなのが、男らしさの歴史である。これは毎日新聞の書評の欄で紹介されていたものである。歴史は男系原理によって偏向を受けているという。なので、双系原理に立ってすべての言説を見直してゆくことがいるとしている。

 男らしさの歴史による主張をふまえてみると、慰安婦像が建てられたことは、男系原理による偏向を改めるきっかけとすることもできないではない。双系原理に立つための足場とすることができる。男系原理に立ったうえで成り立つ歴史にとってはのぞましくないことではあるかもしれないが、双系原理に立とうとするうえでは役に立つ。そうした見かたがとれるのがありそうだ。

温かい風を吹かせるとは、冷たくすることではないのではないか

 生活保護の支給する額を減らす。最大で一三%ほどを減らすのだという。それをするのは、低所得世帯との差を整えるためであるとしている。低所得世帯よりも、生活保護の支給額のほうが上回ってしまっているのを改める。

 差を整えるのであれば、生活保護の支給額を減らすことでそれをするのはおかしい。そうした声がウェブにおいてあげられている。低所得世帯よりも生活保護の支給額が上回っているのであれば、低所得世帯を向上させるべきである。低いほうに合わせてしまってどうするのだというわけだ。

 アベノミクスでは、温かい風をまんべんなく行き届かせる、としていた。その温かい風は低所得世帯に吹いているのかといえば、首を傾げざるをえない。生活保護の支給についても、そこに温かい風が吹けばよいが、そうはなっていなさそうだ。温風ではなく冷風が吹いている。温風が吹いているとしても、それはどこかの一部の話であり、全体の中でむらがあると言えそうだ。

 日本は単線社会であると言われている。これは一本の線にしかよっていないあり方だ。その線とは経済である。経済で落ちこぼれてしまうと、救いがないのである。大づかみに言ってしまうと、こうした社会はきわめて生きづらく息苦しいものであるということができる。経済による量の価値観は画一さや一様さをよしとして、質をないがしろにするきらいがいなめない。質が切り捨てられてしまうわけだ。

 経済という線から落ちこぼれてしまっても、救いがあるようにする。そのためには、線を一本だけではなく二本以上にして、複線社会にするのがのぞましい。そうすることで、相乗効果がはたらく。経済にとっても有益となるのが見こめる。

 経済というのは一見すると平等に見えて、じっさいには不平等の温床だ。なので、その線からこぼれ落ちてしまったさいにそれを救えるようなものが充実しているのがのぞましい。そうすれば、経済にとってもよい波及の効果が出るのではないか。

 日本は単線社会であり、経済の一本の線しかない。その線からこぼれ落ちてしまうとどうしようもなくなる。あらかじめのそういった緊張を強いられるのがあるために、なかなか財布のひもがゆるまない。そんな見かたも成り立つのではないか。

 基本の需要である欲求については、それをきちんと満たすことができる。そしてそのうえで、さらなる欲望をもつのであれば、経済による市場に参加する。そうした区別がとれるという。欲求には限度があるが、欲望には限度がない。それによって区別がとれるのである。この区別をとるとすると、市場は欲望を受けもつ。そしてそれとは別の基本の需要である欲求については、無条件で満たすことができる。

 人間としての基本の需要である欲求を満たすのは、なんら恥であるわけではない。そうであるために、生活保護を受給することについて、恥の意識みたいなのがあるとすれば、それをなるべく払しょくできればよい。窓口の水ぎわで止めるのではなく、歓迎できればよい。その一方で、さらなる欲望をもつのであれば市場に参加する。こうしたようにすれば、単線であるのからやや脱せられて、複数の選択がとれるようになる。これは理想論にすぎないのはあるだろう。そのうえで、単線による経済一本やり(一元論)や経済決定論のようなあり方は、そう遠くないうちに行き詰まってしまいそうなのがありそうだ。

失敗の捨象と、肯定(栄光)による象徴

 権力者が、権力を維持してゆく。そのさい、まったく何も失敗をしでかさないとは考えづらい。その失敗をどう見なすかというのがある。失敗をたいしたものではないとすることもできる。本当にたいしたことでないのならそれでもよい。その一方で、大したことがないとしてしまうと、全体化して肯定してしまうおそれがある。

 権力者が権力を維持してゆくのには、神話の作用がはたらく。神話ということについては、それを啓蒙であるというふうにできる。そして、啓蒙は神話に退化する。そのようなことが言われている。これは、哲学者のテオドール・アドルノとマックス・ホルクハイマーによる言明である。

 啓蒙の弁証法では、啓蒙が野蛮に転化すると言われている。このような転化がおきてしまい、野蛮が猛威をふるってしまうのであればやっかいだ。知らずうちに転化してしまっているのである。このようなあり方があるとして、それを大目に見て許してまでも、権力を維持しつづける意味や必要がはたしてあるのか、という疑問をもつことができる。この疑問をふまえるとすると、出発点にまで立ち戻ってあらためて見直すことがいるだろう。

 政治の一面であると言われる、みなの利益につながるようなことがある。それを正の側面であるとできるとすると、それだけではなくて、負の面も同時に見てゆかないとならないのかもしれない。表と裏といったあんばいだ。われわれ一人ひとりの自由の幅が増えるのはみなの利益にあたり、正の面といえる。それがきちんと実現していないのだとすれば、負の面を見てゆかないとならない。それを、あたかも負の面がない(小さい)かのように言ってしまうのであれば、神話となってしまうだろう。