なぜ出席するのが許されないのかの合理的な説明が十分でないのがあるかもしれない

 宮中晩さん会が開かれる。皇室でもよおされるものである。その席に国賓が招かれるが、同性のパートナーであるのなら出席するのに反対だ。自由民主党竹下亘氏はこのような発言をして、あとで不適切だったとして事実上の撤回をした。

 竹下氏は、宮中晩さん会への同性のパートナーの出席に反対だとの発言をしたあとに、言わなければよかったと反省したそうである。その反省の中で、竹下氏の身近には同性のパートナーをもった人がいるのだと語っている。そのほかに、竹下氏のめいから電話があり、どんなことを心の内で思っていてもよいが、口にするべきではないことだった、と言われたという。

 宮中晩さん会に同性のパートナーの国賓が出席するのに反対なのは、日本の国の伝統に合わないからだと竹下氏はしている。この日本の国の伝統というのはいったい何なのだろうかという気がする。かりにそうした伝統があったとして、それが正しいことだとも言い切れないものだろう。伝統だからそれが正しいとか従わないといけないとかするのではなく、それを改めて吟味することがあってもよい。

 皇室を考えたさいに、日本人のメンタリティ(精神性)としてどうなのかがあり、そこから同性のパートナーの出席に反対する発言にいたった。そのようにも述べている。このメンタリティというのもはっきりしたものとは言いがたい。日本人のメンタリティとはいったい何なのだろう。日本人のメンタリティと非日本人のメンタリティを分けるものが何なのかが定かではなさそうだ。そのあいだの線はそうとうに揺らいでいる。また、あるべきだとされる日本人のメンタリティとじっさいの日本人のメンタリティは一致しているとは言えそうにない。

 日本の国の伝統だとか、日本人の精神性とかに合うかどうかで判断する。そのさい、伝統や精神性というのはかなりうさんくさいものであるのはたしかである。なので、独断や偏見におちいるおそれが低くない。そうしたおそれを避けるためには、伝統や精神性に合わないからだめだと決めつけてしまわないようにする。伝統や精神性に合わなくても、よかったりのぞましかったりすることもある、とするのができる。それで見られればよかったのだろう。

 同性のパートナーをもつ国賓を、属性で見ているのがありそうだ。属性とは範ちゅうでありキャラクターである。そうした属性や範ちゅうで見るのではなく、現実の特定の人としてどうなのかといったふうにも見られる。そうすれば、個人を尊重しやすくなりそうだ。人には色々なちがいがあってよいわけだし、それに加えてそれぞれの人はなるべく平等にあつかわれるのがのぞましい。

サンフランシスコ市はアメリカにあり、そのアメリカの大統領と日本の首相は蜜月とされているのがあるから、そこのかね合いはどうなのだろう

 女性が三人で手をつないでいる。そうした像が、アメリカのサンフランシスコ市に建てられた。これは、従軍慰安婦(戦時性暴力被害者)をあらわしたものである。サンフランシスコ市の議会は、この像を建てることを全会一致で決めたという。

 サンフランシスコ市と姉妹都市であるのが日本の大阪市である。大阪市はこの像を建てるのを不服として、サンフランシスコ市のエドウィン・リー市長にあてて書簡を送ったそうだ。像を建てるのに市長が拒否権を使ってほしいとたのんだ。しかしリー市長はこれを受け入れなかった。よって、大阪市の吉村洋文市長はサンフランシスコ市との六〇年にわたる姉妹都市の関係をやめることを決めたそうである。

 せっかく六〇年も姉妹都市の関係をつづけてきたのに、それをやめてしまうのはもったいないなという気がする。姉妹都市の関係をやめたところで、サンフランシスコ市の側の考えが変わるわけでもないから、本質として有益な決断だったのかは多少の疑問が残るところである。

 慰安婦像には碑文があり、そこには、性奴隷にされた何十万人の女性だとか、大多数はとらわれの身のまま命を落とした、とあるそうだ。大阪市の吉村市長は、これについて、日本政府の見解とちがうとしている。この吉村市長の見解ははたしてどうだろうか。日本政府の見解をそのままよしとしてしまっているのがちょっと腑に落ちない。そこを疑うこともできるはずである。

 サンフランシスコ市に建てられた像について、それを全面からは受け入れられない。もしそうであるのだとしても、一部については受け入れられるのではないか。像を建てた趣旨として、女性の権利の向上なんかがあることが察せられる。その点については、その価値を評価できるはずである。たんに歴史の認識についてどうなのかということにだけ還元してしまうと矮小化することになりかねない。そこはゆずれないところではあるかもしれないけど、いっぽうで意義を認められるところは一部認めるというのはどうだろう。

 まったくもって吉村市長の決めたことがまちがっているというわけではない。それはそれで一つの決定としてありなものではあるだろう。そのうえで、国をまたいだ社会関係(パブリック・リレーションズ)を築くようにするのもよいのではないか。それをするためには、どういった倫理観をもつのかがいる。たとえば、自国に都合の悪いことを隠してしまったり忘却したりするのではなく、それをなるべく明らかにして行く。また、女性の人権を守り、戦争時の性暴力の被害は決してあってはならないことだとする。もしあったのだとしたら否認をしないで認めて謝罪をする。こうした姿勢をとるのができたらよいのかなという気がする。それによってとくに損をするわけではないだろう。

 もめていることがあるとして、それを転化させることができればのぞましい。もめていることはマイナスなことなわけだけど、それをプラスのことに転化するのもできないではない。こちらが勝つか相手が勝つかとか、こちらが負けるか相手が負けるか、といったとらえ方では、固定和(fixed-pie)の前提に立っている。これだととり分の奪い合いになりかねない。そうではなくて、和を広げられるようなこともあるから、そういったのをさぐるのはどうだろうか。隣国である韓国や中国にプラスになり、日本にもまたプラスになる、といった方向である。そんなにうまい手はそうそうはないかもしれないが、こうした方向のほうがよい動機づけがもてそうだ。

 日本がことさらに悪く言われるのには我慢がならない。そうした心情があるとすれば、それは分からないでもないのがある。その心情は、視点を変えることで少し和らげることができるかもしれない。日本が悪く言われるのは、日本に焦点が当たっているからにすぎない。日本以外の国に焦点を当てれば、悪いことをまったくやってきていない国などほとんど無いのではないか。ゆえに、日本が悪く言われることについては、それを広げて見ると、ほかの国をも含めた共同性のことがらとして見られる。日本だけではないとして、共同性のことがらとしてしまうのは一つの手としてありそうだ。

 どういった方へもって行くのがのぞましいのかといえば、それは融和や和解や友好や連帯とかに向かえればよい。そうではない、逆の敵対の方へ向かってしまうようだと、それは危ないことはたしかだ。そうした危ないほうへ進むのをいかに避けられるのかがある。

 必然の水準で見ると、明らかに日本をおとしいれようとする悪い企てとして一つには見られる。しかしそれとは別に、可能性の水準でも見られる。可能性として見るのだとすれば、そこには両面価値(両価性)があるとできる。それは陰でもあり光でもある。陰だともできるけど光だともできなくはない。その光に当たるのは、ゆるしである。ほんのわずかなささやきのようなかすかな声ではあるとしても、そこに和解の希望みたいなのを見いだすこともできるのではないかという気がする。

ていねいで正しい言葉を話すと日本人は無視するのを、ていねいで正しい言葉で話したら日本人は無視するのだろうか

 ていねいで正しい言葉を話す。そうすると、日本人は無視する。元テレビ局アナウンサーの長谷川豊氏が、そのようなことを言っていたのをブログの記事で見かけた。はたしてこのようなことがあるのだろうかというふうに疑問に感じた。

 ていねいで正しい言葉を話していて、無視されていない人も少なくない。たとえば天皇陛下皇后陛下がそれに当たるだろう。これは地位にもよるのかもしれないが、もし天皇陛下皇后陛下がかりにではあるが汚い言葉を話したとしたら、ちょっと幻滅してしまうところもないではない。じっさいにそういうことはないわけだけど。

 ていねいで正しい言葉を話していても、無視されていないでしたわれている人もいるわけだから、これは長谷川氏の説への反例としてあげられることである。

 もしかりに、ていねいで正しい言葉を話していると日本人が無視するのであるのなら、それは無視する方がまちがっているのではないか。そのようにも言うことができるかもしれない。方法二元論をとるとすると、事実から価値を導くのに待ったをかけられる。事実は事実であり、価値は価値であるとできる。無視されるという事実があるとしても、それと何が価値であるのかはまた別の話だ。

 ていねいで正しい言葉を話すのと、日本人から無視されるのとは、必ずしも因果関係で結びつかないと見ることができるかもしれない。ていねいで正しい言葉を話すのが原因であり、日本人から無視されるのが結果だとはできないわけである。原因と結果の二項が、結びつくのではなく、別々に見られる。ほかにありえるだろう原因として、話の構成や(内容が)未知か既知かや面白さや冗長さや発話者の威光などがどうなのかがある。

 因果関係があるわけではないとして、相関関係はどうだろうか。相関関係では共変関係があるかどうかによって見られるそうだ。ていねいで正しい言葉を話すのとは別に、汚い言葉で話すことでも一部から無視されるとすれば、いずれにせよ(ていどのちがいはあったとしても)場合によっては無視されるわけである。なので相関があるとは必ずしも言い切れない。

 ていねいで正しい言葉を話すと、日本人から無視されるのだという、その認知がまちがっているおそれもある。じつは無視されていないのかもしれない。事実を誤認しているのである。誤認ではなく、じっさいに無視されているとしても、それはたまたま無視されているだけなのか、意識して故意に無視されているのかがわからない。もしたまたま無視されているだけなのだとすれば、そこにはわずかではあるかもしれないが救いがある。運の要素があるわけだ。偶有性がある。無視の反対は絶賛とか賞賛による受容だとすると、そのようなふうになることも可能性としてはまったくゼロではない。万人からそのように受容されるのは無理だとしても、たった一人から絶賛や賞賛されるかもしれない。

 数として見たら、一人だけから受け入れられてもものの数ではないのがある。しかし数がすべてではないのもまたたしかだ。一人というのは極端だとしても、少数と多数があるとして、そのちがいは相対的なものにすぎない。数のちがいとは別に、質によって見ることもできる。質によって見るのであれば、数は二次的なものとなる。

 日本人をこれこれのようなものであるとして仕立てあげるのではなく、それに待ったをかけることができる。もしそのようにして、これこれのようなものであると仕立てあげてしまうと、一神教のようになる。それとは別に多神教として見ることもできる。多神教では、捨てる神あればひろう神ありとも言われるから、無視するのをかりに捨てると言えるとすると、必ずしも捨てたものではない。

 ていねいで正しい言葉を話すのとはちょっと意味合いがちがうのだけど、直接にずばっと言ってのけてしまうといったような斫断(しゃくだん)をするのは必ずしも功を奏するとはかぎらない。そこでいらぬ角が立ってしまうというのがある。なので、そうしたいらぬ角をむやみに立てないためにも、甘めに言うというのがあるのがよいのかもしれない。孫子の兵法では、迂(う)をもって直となすとも言われる。ときにはぴしりと辛く言うのもいるのはあるだろうけど。あと辛口で言ったほうが自分が気持ちよいのもある。

あくまでも問題がないとの前提(仮定)に立つとしても、じっさいには問題ありの相に転移しているおそれがある(その相の中にしっかりと両足が入りこんでしまっている)

 問題がもちあがる。そのさい、その問題がなぜおきたのかが一つにはある。そしてもう一つには、その問題にどのように対応するのかの側面もある。この二つをふまえてみることができそうだ。

 この二つのうちで、かりに何かの問題がおきてしまったのだとして、それへの対応をどうするのかをとりあげられる。問題というのを一つのできごと(event)だと見なせるとすると、できごとは事前ではなく事後に認められるものである。事後として、現在形または過去形の時制で認められるものだ。

 問題への対応については、最初期重点対処の法則というのがあるそうだ。これは、何かの問題がおきたさいに、その最初期に最大限の力を注いで対処することをさす。たとえばどこかの場所に火があがったとすれば、はじめのうちはまだ大きくないので、わりあい消しやすい。しかし放っておくとどんどん大きくなり、消しづらくなる。火の手が広がってしまう。

 問題がおきたばかりである最初期は、そこへ重点をおいて最大限に力を注ぐ機会だとも見なせる。認知と行動が早いほどよい。その機会をみすみす逃してしまい、たいした力を注がずに中途半端にしてしまうのだと見かたによってはもったいない。労力を省いたぶんだけ、問題の解消の効果も期待できない。後手後手に回ってしまうことになるわけだ。

 まだきちんとした問題の形をとっていないか、もしくはまだ引き返そうと思えばそれができるのを、一つの相と見なせる。それとは別に、ある一つの問題の形をとってしまったり、ここから先は引き返そうと思ってもそれができなくなったりする相があげられる。前の相からあとの相へ転移してしまうとすると、その境い目がある。この境い目をふまえてみることができそうだ。

 問題なしの相と、問題ありの相があるとして、問題なしの相にとどまっていられれば、問題はなかったわけである。これが、問題ありの相に移ってしまうのは、臨界量を超えてしまったことによるのがある。これは限界質量ともいい、クリティカル・マスまたはティッピング・ポイントとも呼ばれるという。この臨界量は、自分に甘ければそれを大きく見積もることができる。逆に自分に厳しくして律するのなら、それを小さく見積もることになる。

 自分がこれくらいだろうと見なしている臨界量が、世間がこれくらいだと見なしている臨界量と同じだとはかぎらない。世間の中でも、それをすごく小さく見ている人もいれば、大きく見ている人もいるだろう。そのどちらに合わせるのかがあるわけだけど、(世間の中で)大きく見ている人に合わせてしまうと、たるんでしまうことになりかねない。自分の中の基準が甘くなってしまうのだ。そうすると、ほんとうは臨界量を超えてしまっているのにもかかわらず、それに気がつかないで見逃してしまうことにつながりかねない。そうした危うさがある。

 さしてとるに足りないことなのにもかかわらず、それをことさらに大げさに騒ぐのはいかがなものか。そうしたことも言える。それをふまえつつ、別な見かたもできることはたしかだ。たとえほんのささやかなことであったのだとしても、それを重要なことだと見なす人がいるとすれば、それを尊重するのがあってもよい。そこに寛容さをはたらかせるといったあんばいだ。不寛容になってしまうこともあるわけだけど。

 小さなことであっても、それを軽んじてしまい、無視してしまうと、危機の引き金となる。小さくても重要でないとはかぎらない。こうした小さなことに目を向けるのは、微視(ミクロ)による見かただといえるだろう。この微視による見かたをもつとすると、ちょっとしたことだと見なせることがおきたとして、それが生起したのを見逃さないようにする。そうして生起したことをきちんと認めて、危機管理をするとよい。

 森の中に木があるとして、ある特定の木にばかりこだわってしまうのは、全体への視点を欠くことになりかねない。そうしたのはあるが、いっぽうで、何か特定の木に焦点を合わせないととりつく島がないというのもある。全体をばく然と見るのではなく、特定の木をとっかかりとして焦点を合わせる。たんなる部分としての一つの木だとしても、それは有機として森そのものとつながっている。木は木々になり、それが林になり森になるといったあんばいだ。森は虚偽(幻想)であり、木が真であるとも言える。個別のところに真実がやどると言えないでもない。

何をもってしてていねいという形容ができるのかがある(何ならばていねいであると言えるのかの条件が明らかでないし、意味合いも定かではない)

 ていねいな説明を重ねてきた。疑惑としてとり沙汰されていることについて、自由民主党安倍晋三首相はそのように述べた。国会での答弁の中で、疑惑についてはすでに説明してきたのだと言う。ここには、首相における素朴な現実主義(naive realism)がかいま見られる。

 ていねいな説明を重ねてきたことに、確証をもつ。そうしたのとは別に、その確証をいま一度改めて見ることがいる。そのように改めて見ることがないと、素朴な現実主義におちいってしまう。これは、自分の観点を正しいものだとして、正当化してしまうものである。わからず屋の相手が悪いのであり邪だとしてしまう。

 自分による現状認識がもっとも正しいものだと言えるのか。それが一つにはあるだろう。人には人のまたちがった現状認識があるのであり、それにもとづいた行動があるのもたしかだ。それらを比べてみて、どちらかが完全に正しいというよりは、どちらもがそれぞれに限定されていると見ることができる。人間が行なう推論は、自尊心(自己愛)からの影響を少なからず受けてしまうとされるのがある。

 自分の観点をあくまでも正しいものだとしてしまうと、自己修正がききづらくなる。一方的になってしまう。これは、自分の見なし方をしっかりと基礎づけていることをあらわす。自説のくり返しとなり、ひとり言である独話の構造となる。そのようにするのではなく、自分をずらして行くのができればのぞましい。相互関係や相互流通をとるのである。

 かりにていねいな説明を重ねてきているのだとすれば、それによって相手がそれなりに納得したり、問題があるていど解決していたりするはずである。しかし一向にそうはなっていないのだとすれば、いまの現状と整合していない。話が平行線となり、水かけ論となってしまっているのが現状だ。

 首相の言っていることが、まったくのでたらめというわけではないとも言える。いちおう国会の中で答弁を(正面からではないにせよ)こなしてはいる。しかしそれをやったからといって、必要十分だとは言えそうにはない。それを必要十分だと見なしてしまうと、心理的なしくみである、自我の防衛機制や認知の不協和の解消がはたらいてしまっている。

 なにを必要十分だとするのかは、たとえば、人から聞かれたり問われたりする前に自分から口を開いて説明をつくす機会を率先してもうける。そのほかに、さまざまなところにいる記者に参加を呼びかけて、自由に質問をさせて自分がそれに応答する。こんなことができればよいのではないか。じっさいにはむずかしいだろうし、そんなことをする必要などない、というのもあるかもしれないが、これは完全な義務とは言えないまでも、努力目標としてはおけるはずだ。

 ていねいな説明を重ねてゆくのも悪くはないけど、それよりも真相を明らかにするように努めるのがよいのではないか。真相を明らかにしてゆくのではなく、それを隠してしまうのであればもってのほかである。

 ていねいな説明を重ねるというのは、それをしたからよいというのではなく、何の目的意識によってなされているのかが要点としてある。ていねいな説明をすること自体が目的なのではなく、それは手段にすぎない。疑惑の真相を少しでも明らかにしたり、批判を投げかけている人たちが少しでも納得できるような答えを示したりすることが肝心である。

 一つの発話として見てみると、首相の言うていねいな説明を重ねてきたとの弁は、事実(コンスタティブ)というよりは遂行(パフォーマティブ)であると言わざるをえない。遂行であるということは、言(言っていること)と行(やったこと)が一致していないということである。その言と行を一致させるために、まだまだできることがあるはずである。やっていないけど、やったことにしてしまう、という一致のさせ方ではまずいだろう。

子どもの数を増やすのもよいだろうけど、それとは別に、制度の硬直さなんかを改めるのもあればよさそうだ

 主語が大きいのをあらかじめ断っておきたい。そのうえで、こうした意見を見かけた。女性の知的水準や教育水準が低いほうが、その国で女性一人ひとりが子どもを産む数が増えるというのである。女性が本能によっているほうが、子どもを多く産みやすい。これは、元テレビ局アナウンサーの長谷川豊氏による発言だという。

 そもそも、子どもの数を機械的に増やすのはよいことなのだろうか。そこに疑問をもつことができそうだ。一説では、日本の人口は八〇〇〇万人くらいがちょうどよいというのも言われている。(自分と同じ年代の)人口の数が多ければ、それだけ競争相手も多くなるわけで、生きやすくなるとはかぎらない。国にとっては、税金をとれる頭数が多いほうがよいのかもしれないけど。

 資本主義が経済の格差を生むことを示した、フランスの学者のエマニュエル・トッドは、このような説を言っているという。それは図式的なものであり、以下のような流れとなるものだ。まずはじめに男性の識字化がおきる。そしてそのことで革命と動乱がおきる。つぎに教育の普及などにより女性の識字化がなされる。それによって女性の教育の水準が高まり、社会進出もできるようになる。それにより、出生率が低下する。そこから、民主主義が安定化するのだという。

 このトッドの図式では、かなり楽観的な見かたがとられているといえるそうである。なのでじっさいにはこの通りに進むとは言い切れないのがある。そのうえで、これは人口統計学または人口動態学であるデモグラフィーと呼ばれるものからの見解だから、そんなにいい加減なものではなく、一つの見かたとして有効だと言えそうだ。

 フランスの思想家であるシャルル・フーリエはこのようなことを言っているという。女性の特権の伸張はあらゆる社会的進歩の一般原則である。これをふまえてみると、日本はまだまだこの点で立ち遅れているのがあるのはいなめない。もっと改善できるところがある。世界の先進国と比べても、それと肩を並べるまでにはいたっていないところが多々あるのではないか。

 人口や経済におけるやっかいな問題は、男性も女性もともに、さらなる教育の普及や知の水準が高まることによって、多少なりとも光が見えてくる。政策として何をさしおいても絶対に正しいとは必ずしも言えないかもしれないが、このように見なすことがあってもよさそうだ。大上段にかまえて、全体の教育の向上などというのではなくても、とりわけ社会の底辺に近いところにおかれている人たちの、貧困と無知(情報不足)からおきてしまう苦悩や悲劇をどうにかするのはあってほしいものだ。

 話はやや変わるけど、こういう発言もあった。三〇歳をこえて、何年もつき合っている女性と結婚もせずに独身のままでいる男性は生きている価値がない。これについては、ちょっと言いすぎであるのはたしかだ。たとえどんな人間であっても、尊厳があるわけだから、生きている価値がないということはない。結婚にふみ切れないのは、個人にではなく、状況に原因があるとも見られる。であるのなら、状況を改めればよい。すぐには改められないかもしれないけど。

格律(マキシム)が普遍化できるかどうかで、言動を見られそうだ(自分たちはやっているのに、相手にやめろと言うと普遍ではなくなる)

 北朝鮮を非難する。そうしたことで、東京の新宿でデモが行なわれた。名目のうえでは、北朝鮮を非難する国民大行進とうたっているようで、それに偽りがあるわけではないのだろうけど、その中では憎悪表現(ヘイトスピーチ)まがいのことも言われたのだという。朝鮮人朝鮮半島に帰れ、などの文句である。

 北朝鮮がミサイルを海へ撃ってきたり、核兵器を開発したりしているのは、のぞましくないことであるのはたしかだ。なぜそうしたことをするのかということについては、必ずしも北朝鮮の内的な特性とはいえないのがある。一国の要因か、それとも状況の要因かのちがいである。

 原因や責任の帰属については、共時(横)と通時(縦)による見かたが成り立ちそうだ。共時においては、世界の中で大国と小国の力の差があるのがあげられる。それぞれの国のあいだで平等や公平になっているとは言いがたい。力の差による支配と被支配の関係がとられてしまっている。そうしたのがあるとして、力(might)と正義(right)を分けてとらえることがいりそうだ。

 通時においては、かつて日本は朝鮮半島を植民地支配していたのがある。そこでは日本の臣民として、同一化政策がとられていた。これはその土地や場所の実情を無視したものである。そして戦後には、朝鮮半島は北と南に分かれてしまったわけだけど、これは日本にもその責任が少なからずある(大いにある)。だから他人ごとであるとはいえないものだろう。

 北朝鮮が国家としていだいているとされる、意思や野望が正しいものであるとはいえそうにない。ミサイルを海へ撃ったり、核兵器を開発したりするよりも、もっと経済開発や人間開発をするのが優先できる。人間開発とは、経済とは別に人間を中心にするもので、一人ひとりの国民の選択と機会の幅を増やすものであるそうだ。そうすることで一人ひとりの自由の幅が増える。

 北朝鮮を非難するのだとしたら、経済の発展や人権の保障を国民にもたらすようにせよ、なんていう訴えをするのもよさそうである。北朝鮮には北朝鮮の主権があるのはたしかなわけで、内政干渉は不当だなんていうのもあるかもしれないが、それはそれとして、話し合うのは必要だ。話し合いなんて現実にはとうていできっこないというのもあるから、あまり説得力はないかもしれないけど。

 話し合いのできづらさについては、一つには二重基準であるのをあげられる。核兵器については、ある国は保有してもよいが、ほかの国は保有するな、というのがまかり通ってしまっているのを無視できそうにない。われわれは持つけど、君たちは持つな、ということだ。この二重基準はおかしいといえばおかしいものである。北朝鮮は、それをついてきているのがありそうだ。ゆえに、北朝鮮を非難するのとは別に、こうした二重基準がまかり通ってしまっているのをよしとしているのだとすると、それを非難しないとならない。

 北朝鮮は不道徳で、北朝鮮を非難している国が道徳的だ、とは必ずしも言えなさそうだ。すべての二重基準が、それだけをもってして頭から否定されるべきだとは言えないかもしれないけど、少なくともそこに欺まんみたいなものがあることはいなめない。

 毛沢東は矛盾論において、目の前の矛盾の背後には主要矛盾があり、それを認知せよと言ったのだという。北朝鮮のあり方を非難するというのは、目の前の矛盾である従属矛盾をとりあげることに近そうだ。そこでとどまらずに、その背後にある主要矛盾を認知できればよさそうである。そのようにできれば、重層(多元)的にとらえることにつなげられる。

できれば国際連合からの勧告に政府は素直に耳を傾けてほしいものである

 報道の自由のために、法改正をうながす。国際連合は、日本の政府にたいしてそのような勧告を出しているという。日本の報道の自由は、世界のランキングでは 72位となっている。この現状を改めることがいる。

 国連の人権理事会は、218項目の勧告を日本の政府に出している。その中には、特定秘密保護法の改正が入っている。記者活動を萎縮させかねないことが理由としてあげられている。政府に都合の悪い報道をしたさいに、放送局へ電波の停止をちらつかせるのをさせないために、放送法の改正もしないとならない。

 国連の人権理事会があげた項目のうちで、どれを受諾するのかを政府は決めて、表明する。それを受けて国連は正式な勧告を採択するのだという。

 報道の自由はいったい何のためにあるのかというと、それは国民の知る権利のためにあるのだということである。権利というのは切り札でもあり、それを使わない手はない。これが無駄になってしまわないようにして、もっと活用してゆくのがあってもよさそうだ。

 憲法ではさまざまな自由を国民に保障している。このうちで、国民が自己実現するのが一つにはあるそうだ。自分の人格を自分で形づくり発展させる。それに加えて、時の政権がやりたい放題にやらないように監視するのもある。これは自己統治である。

 こうした自己実現や自己統治が十分にできるようになっているのかといえば、残念ながらそうはなっていないと言わざるをえない。国や政権に都合がよいようになってしまっているきらいがある。知らしむべからず、よらしむべしといったあんばいだ。じっさいにランキングでは世界で 72位なわけだから、やろうと思えばこれを改善することは十分に可能である。

 報道の自由については、停滞してしまっているふしがある。そうした停滞を改めて、進化させないとならないのではないかという気がする。停滞や後退してしまっているのを危機(国難)と見なし、それを向上させるために力を注ぐ。そのようにしないと、世界の中でどんどん置いてきぼりになってしまいそうなのが心配だ。監視もできないしつり合いもとりづらい(ノーチェック・アンバランスになる)。時の政権の顔色をうかがいながら、おそるおそる報道をしないとならないようでは、本当に報道するべきものを報じられない。さして重要ではない情報の中に埋もれてしまう。

利益(薬)と不利益(毒)は、転化することもなくはない(両価的である)

 多くの人がある方向に向かっている。そうしたなかで、一人だけそれとは逆の方向に向かう。多くの人が右に向かっているとすれば、一人だけあえてそれとは逆の左に向かうのである。こうしたことが、投資の世界では重要だと言われているそうだ。心細くはあるが、利益を得るためにはこのようなことを心がけるのがよいわけである。

 多くの人がある方向に向かっていて、自分もまた同じくそれに従うのであれば、投資の世界ではあまり利益を見こみづらいのだという。あえて多くの人とは逆の方向に行くことができないとならない。中心ではなく、周縁や辺境に自分の身を置くようなふうだろうか。

 多くの人がある方向に向かっているとして、それに同じように従っていれば、無難であることはたしかである。しかしそうではなく、それとは逆の方向に向かうのであれば、それだけ危険さがあると見なせる。危険さがあるのは、裏を返せば、それだけ利益が見こめるおそれがある。もっとも、確実に利益を得るというわけには行かないのはたしかだ。そのうえで、一般論でいうと、危険さと利益は比例するのがあり、無難であればそこから得られる利益はそれほど高くはない。

 投資の世界とはちがうけど、報道についてもそうしたことが当てはまりそうだ。時の政権は多くの有権者から選ばれているわけだけど、それはあくまでも相対的な量にすぎないのがある。たとえ政権ににらまれるおそれをおかしても、その危険さをとることによって、得られる利益がある。こうした危険さをとるのは、報道の自由が保障されていないとできづらいことではあるだろうけど。

 利益と一と口にいっても色々あるわけであり、みなが今やっていることややろうとしていることをよしとする、大勢に従うようなものもあるだろう。そうしたのとは別に、投資の世界をふまえてみると、多くの人がよしとするものとはちがう、逆の方へあえて行くことによって見こめるものもある。こうしたことが許されるのであれば、個性を認めることにつながる。これは、みなと同じである同一さをよしとするのとはちがったものである。

犯罪や不正という点でいうと、一政治家や一報道機関もそうだけど、それより大きなのは国家(政権)によるものなのがあり、大きなものを見逃すわけには行きづらい

 彼らは犯罪者だと思っている。そのように言われたのは、自由民主党石破茂氏や、希望の党玉木雄一郎氏や、立憲民主党福山哲郎氏である。この三人を犯罪者よばわりしたのは、日本維新の会足立康史氏である。

 足立氏が石破氏らを犯罪者だと思っているとしているのは、友敵論でいうと敵と見なしていることにもよりそうだ。こうして敵と見なしてしまうのだと、ごく単純な二元論となってしまう。そうではなくて、とり沙汰されていることの真相がどうだったのかが明らかになったほうが、みなの益になるのがあるから、そちらの方へ力を向けたほうが生産的なのがある。

 石破氏らのほかに、足立氏は朝日新聞の記事の内容にたいしてねつ造だと言っている。石破氏らを犯罪者としている理由と、朝日新聞の記事をねつ造だとしていることとは、ややくいちがっている。これがどちらも同じ理由によっているのであれば一刀両断できるわけだけど、それぞれにちがった理由によっているのだから、どれもを虚偽だとしてしまうのはいささか乱暴だ。

 足立氏のよって立っている視点がまったくもってまちがっているのかどうかは定かではない。そうしたのはあるが、自分のよって立っている視点を確実なものとしてしまうと、それを絶対化することになってしまう。このようにすると、自分の視点が正しく、他はまちがっているとなりかねない。そうではなく、自他の視点を相対化することで、一つの定点をもつのができればのぞましいのがある。どのような視点も、さまざまな遠近法による解釈にすぎないものである。

 自分の視点に確証をもちすぎてしまうと、独断になりかねない。そうした独断から偏見が生み出される。犯罪者やねつ造だと決めつけてしまうのは、偏見によっているのだとしたら問題だ。そこは慎重に見てゆかないとならないものである。慎重に見てゆくとは、認知の不協和があったとしても、それをたやすく解消しないようにすることをさす。不協和となっている対立する認知があるとして、そのどちらが正しいのかはすぐには決めがたい。

 犯罪者だとかねつ造だとかと決めつけてしまうようだと、必然の水準で見ていることになる。しかしそれとは別に、可能性の水準で見られることもたしかだ。可能性として見れば、必然として決めつけられない。必然ではなければ、犯罪者でなく、ねつ造ではないのも真実だ。

 石破氏らを犯罪者だというのについては、制度としての政治と金の問題についても見てゆかないとならないのがありそうだ。これは石破氏らにかぎらず、政治家の人たちのすべてに当てはまるものであり、二重基準のようになってしまうのであればまずい。

 時の権力を信頼しすぎてしまうと専制主義になってしまう。そうした専制を避けるためには、たえずきびしく監視しつづけて行かないとならない。主権は(国家にではなく)国民にあるわけだけど、それを代表してになうのが国家の機関や政権である。そこには代表しているがゆえの避けがたい嘘の横行がある。道徳の崩壊であるモラル・ハザードもおきてくる。

 足立氏が自分による主張をうったえてもよいわけだけど、それは一方的なものであるのではなく、双方向的なものであるほうがよいものである。それに加えて、表現の自由には公共の福祉が関わるのがあるから、最低限の倫理観をもつこともいるだろう。さらに、認知の歪みやまちがいを避けては通れないわけだから、自己修正がよくきくようであることもいる。こうしたことに気をつけられれば、のぞましい社会関係(パブリック・リレーションズ)が築けるのがある。