立場のちがいが理であるとすると、それを乗り越えるのは気であると言えそうだ(理による区別は、差別につながりかねないところがある)

 エレベーターの中での気まずい沈黙がある。自由民主党安倍晋三首相と、たまたまエレベーターの中で二人きりになった人(議員)がいた。そのさい、その乗り合わせたのが首相と立場をまったく異にする人だったため、たがいに言葉を交わし合うことはなかった。

 このエレベーターの中での例は、一つの逸話にすぎないから、それをもってして一般化してしまうことはできそうにない。とはいえ、この話のほかの情報もあり、それをふくめて見ることができる。

 国会の中では、政治家どうしが激しくやり合う。しかしひとたびそこから外に出てしまえば、そこまで対立し合うことはない。過去の首相でいうと、福田康夫氏や、小泉純一郎氏なんかに、そうしたあり方がかいま見られたそうだ。立場を異にする者にも、少しくらいは声をかけてくれる。交感し合うわけである。

 あくまでも論戦の場でのぶつかり合いはそれとして、そうした場から一歩外に出れば、そこでぶつかり合った人にも、ほんの少しくらいの社交性はもつ。この社交性は、理性的であると言ってもよいだろう。じっくりと話し合うわけではないにせよ、表面的には、大人な態度を見せる。

 安倍首相においては、そうしたあり方をとらないところがありそうだ。そこに一貫性があるともいえ、また一方では硬直さやかたくなさがあるとも言えそうである。立場を同じくする人たちにはとても社交的であるが、立場を異にする人たちには非社交的なのである。その分け方がわりにはっきりとしている。

 このように、立場を同じくする人と、そうでない人とのあいだで、対応をはっきりと分けるのは、役割を実体視しているところから来ていそうだ。耳に快くはないような批判を投げかけるのは一つの立場にすぎないものとも言えるが、これを実体視することによって、固定化される。こうして固定化されてしまうと、ほんらい一つの役割であるにすぎないことが忘れ去られる。摩擦が大きくならざるをえない。

 自分のいだく理をよしとするのがあるわけだが、そこに確証を持ちすぎてしまうのはまずい。確証とは肯定であり、肯定だけをもってして意思決定をするのは誤りの危険がつきまとう。行きすぎた合理性につながる。それは効率さと言ってもよく、過度の効率さは一つの世界観の押しつけに行きつく危うさがおきざるをえない。質がないがしろにされがちになる。

 人間にはだれしも合理性に限界をもつのがある。なので、他から批判が投げ交わされることによって、合理性をずらしてゆかなければならない。そうしてずらしてゆくのはめんどうではあるが、それを拒んでしまうようであれば、他からの批判を頭ごなしに封殺することにつながる。自分がいだく確証によって肯定されるだけとなり、全体化に結びつく。そうした危うさがあるだろう。

 指導者や代表者は、たんなる役割の一つにすぎないから、それを実体視してしまうのだと神格化につながりかねない。これは権威によっているあり方である。権威をもった理想の父へ、自分の上位自我が投射されるのだという。父と子の上下関係となる。こうしたあり方では、必ずしも現実を見ることにはつながりそうにない。権威にすがることによって安心を得ようとするのには待ったをかけることがいる。できるだけ、指導者や代表者に、自分の上位自我を投射してしまわないようにすることができればよさそうだ。そうであれば、裏切られて大きく失望したり幻滅したりすることもおきづらい。

なにか具体的な、スパイ活動をじっさいに行っている状況証拠でもなければ、スパイであることを確実であると見なすのにはうなずきがたい(可能性はゼロではないだろうけど)

 スパイであるのにちがいない。そうではないのであれば、そうではないことを証すことがいる。これは悪魔の証明にあたる。スパイではないことを証すことはきわめて難しい。生産的であるとも言いがたい。

 スパイであるかどうかを疑うのであれば、なにか具体的なスパイ活動を行っている手がかりがあればそれをすればよい。そうした手がかりがとくに見あたらないのであれば、ちょっと突飛なところがあるのではないか。

 嘘をついていたから、スパイであるのにちがいない。そのように見なすのであれば、ちょっと論拠として弱いところがある。嘘とはいっても、説明が二転三転したくらいであれば、まちがいなく悪意があったとは見なしづらい。非があることはたしかであるが、一般論でいうと、人間は不完全なものである。記憶ちがいがあるとしてもとりたてておかしくはない。現に要職に就いているのでもないのであれば、国家の命運を即刻に左右することにはつながらないだろう。

 (話は変わって)元大阪市長であった橋下徹氏は、かつて自分の出自をとり沙汰された。そのとりあげられ方はまったくの不当なものであった。そうであるにもかかわらず、人権派の一部からはとくに擁護はなく、むしろそのとり沙汰に加担する人もいた。きつく言ってしまえば、人権派とはいっても、しょせんはそんなものであるにすぎない。人権派とひとくくりにして擬人化して見てしまうのはまずいが、この批判については受け入れることがいるかもしれない。

 橋下氏にはちょっと気の毒ではあるが、橋下氏のかつての出自のとりあげられ方を基準にして、それによってものを断じてしまうのはどうなのだろうか。個人によるかつての体験が不当なものであったのだとしても、そこを基準にしてしまうと、見かたがややずれてしまいかねない。ようは、泣き寝入りさせられるのではなくて、不当なとりあつかいであったことを発言してゆければよいのではないか。その発言は貴重なものである。それだけでなく、金銭などによる、具体的な権利の回復もなければならないだろうけど。

 不当なあつかいだったということは、本来はこうであるべきだったという正当なあり方があるはずだから、そのこうであるべきだったとする正当なあり方を基準にするのがのぞましい。そうではなく、(いくら本当のことであるとはいえ)じっさいにこうだったのを基準にしてしまうと、不当さを肯定することになりかねない。そこが危うそうだ。

首相をおろす

 政権の支持率が三割を割りこんできている。色んな調査があるから、低めのから高めのまであり、高めのだとまだ三割を割りこんではいない。しかしそれを割りこんでしまっているのもあり、危険水域に落ちこんでいるとも見られている。

 政権をになう安倍晋三首相が今いるわけだが、首相に代わるべく次を見すえる人たちがうごめきだしているという。それで、そうした人たちが次の首相の座を得んとして、少しずつ引きずり下ろしにかかっている。

 引きずり下ろしにかかっているのを、安倍降ろしとしている。この安倍おろしという言いかたが、大根おろしみたいだと感じた。大根おろしのおろしとは意味がちがうわけであり、大根のようにすりおろすわけではない。でも言いかたが同じだから、やや不謹慎ではあるが、ちょっとだけ連想をしてしまった。いっぽうは食であり、他方は職(役職)がかかっているのがある。

日本国憲法は、時間割り引きの率の大小によって見ることができそうだ

 日本国憲法の改正は、党の決まりである。党是であるのだという。それにたいして、憲法の改正は必ずしも自由民主党の中心目標とはいえないとの声もある。何よりも優先してやらなければいけないことではなく、数ある目標のなかの一つである。それをあたかも党の存在理由(レーゾン・デートル)であるかのごとく、全面に打ち出しているのが、安倍晋三首相である。そこについては、(党の歴史についての)意図された事実の操作がありえる。

 憲法は、今の時代にそぐわなくなってきているとの声も一部からあがっている。そのさい、経済学でいわれる時間割り引きのとらえかたを当てはめることができそうだ。時間割り引きとは、将来の価値を現在の価値によって評価するものであるという。

 時間割り引きが大きいとは、現在の価値を大きく見て、未来の価値を小さく見ることである。それが大きいと、たとえば未来のためにお金を貯めておくことができづらい。今使ってしまう。現在の価値を大きく見なし、未来の価値を小さく見てしまうためである。

 時間割り引きには、その率が一定なのがあり、それを指数割り引きという。一定でないのを双曲割り引きというそうだ。一定でない双曲型は、人間や動物のありかたに当てはめられる。わかってはいるけどやめられない、といった、目先の誘惑に負けがちなのがあるが、それは双曲型であることによっている。

 人間や動物は双曲型である弱点をもつ。こうしたありかたは、時間非整合であるとされる。時間が経つうちに、はじめに立てた計画(プラン)がしだいに適さなくなってくる。この時間非整合の問題を解決するために持ち出されるのが、コミットメントである。

 はじめに立てた計画がしだいに適さなくなってくるとしても、だからといって変更するのがふさわしいのかといえば、必ずしもそうとは言い切れない。人間は双曲型であるから、たんに目先の誘惑にそそのかされていて、それに負けているだけなのがありえる。そうした弱点をあらかじめ見こしておいて、うまい手を打っておく。

 その手を打つのに当たるのが、コミットメントであり、これによって計画を維持することにつながる。計画を破ってしまうのがディタッチメントであるとすると、それをかんたんにはやらせないのである。

 コミットメントするのには利点がいくつかありそうだ。一つには、目先の誘惑に負けてしまいがちな、双曲型であるがゆえの人間の弱点に止めをかけられる。気持ちが変わったり移ろったりすることなどからくる、時間非整合の問題の解決につながる。

 ディタッチメントをすることについては、欠点があげられる。まず、ディタッチメントをするかしないかが分かれてしまう。そうすることがふさわしいのか、それともふさわしくないのかで、水かけ論になりかねない。こうした水かけ論をやり合う時間は、議論がかみ合わないとすると、あまり生産的とは言いがたい。

 計画(決まり)とはいっても、がちがちにしばられたものではなく、ある程度の融通がきくものであれば、それを撤回してしまうのは必ずしも喫緊の課題であるとはいえないだろう。それよりも、ほかの喫緊の課題にとり組んでいったほうが、より有益であることがありえる。

 決まりを絶対化せずに相対化するのは必ずしも否定されるものではない。しかしそのさい、そうとうにさまざまな角度からとらえてゆかなければならないのがある。たんに一つか二つの角度からだけ見るのでは足りないだろう。色んな知見をふまえて、総合的に見ることによって、帰結を導くのができればのぞましい。たんなる動機主義や結果主義は避けられなければならない。

 そうして色々な知見をふまえつつ、十分に時間をかけて帰結を見てゆく過程がとられること自体が、一つのコミットメントになるだろう。そうではなく、すぱっと斫断(しゃくだん)して捨象してしまうようであれば、それの放棄につながってしまう。

 自己保存はいっけんすると理にかなっているが、それは自己愛であり、欲動(リビドー)であり、力への意志である。そうしたものが肥大して増大してしまうことによって、かえって自己の破滅へと行きつく。そうした自己の破滅へと行きついてしまった過去の負の経験によって、それへといたらないような工夫をとる。その一つの工夫が、軍事権の放棄であり、外交努力の促進だといえそうだ。この工夫については、残念ながらじっさいには逆になっていて、外交努力の放棄と軍事権の復活が一部から強く叫ばれてしまっている。

 軍事権の放棄といっても、国内の治安警察活動は行なわれているわけで、対外的な武力行使が禁じられているにすぎない。国内が丸腰であるわけではなく、外からの敵にたいしてまったく無防備でいるわけではないのがある。いまある備えだけでは足りず、それ以上に高めようとする声もあるだろう。しかしそれについては、ようはできるだけ安全に、平和的な生存ができればよいのであって、その目標を達するための手段はさまざまだ。たんに力を強めればよいといったものとは言えそうにない。むしろ力が抑えられて限定されているがゆえに正しいあり方だともいえる。

 国際的な流れでも、武力の行使ではなく、その不行使が是とされているのがあるそうだ(建て前にすぎないのはあるだろうが、少なくとも建て前の上ではそうなっている)。武力の行使の容認は、相互敵対状態の温存だ。いくらそれが自然であるといっても、いずれ暴力による破滅につながるおそれが高い。そうしたのもあるので、何らかの手によって克服されなければならないものだろう。

責任を持ち出すのであれば、信用しない側だけではなく、信用されない側にもそれがあることがありえる(信用しない側にすべての責任を帰することはできそうにない)

 何も関与していない。非があるようなことを自分はしていない。そのように本人が言っているのにたいして、受けとるほうが信用できないと見なすのは、無責任な評価になる。テレビ番組のなかで、八代英輝弁護士はそのように語っていたという。

 八代弁護士のこの発言については、素直にはうなずきがたい。とはいえ、まったく間違っているとも言えそうにはない。時と場合によって変わってきてしまうだろう。

 本人がどのように言っているのかだけではなくて、まわりの文脈や状況証拠なんかが関わってくる。とりまいているまわりの文脈や状況証拠が、本人が言ったことと明らかに食い違っているのであれば、どちらに重みをもって見るのがふさわしいかは定かとは言えそうにはない。

 かりに、本人が言っていることを単純であるとする。そこへ文脈や状況証拠が加わることで、複雑になってくる。複雑なものというのは、いろいろな判断をゆるす。真相を解明しづらい。そうであるために、複雑になっているのを、はっきりと単純なものとして割り切りってしまいたくなる。そこに危険さがあるのもいなめない。

 本人がどのように言っているのかを、情報の分子であるとする。それをとりまいているまわりの文脈や状況証拠は、情報の分母にあたりそうだ。この分子と分母のどちらに焦点をあわせるのかは、一概に決められそうにはない。どちらに重みを持たせることもできる。どちらについても、質だけで割り切ることはできづらく、量によって見ることもいるだろう。

 単純なのであれば、判断がしやすい。しかし複雑なのであれば、判断するのにもやっかいさが生じる。ことわざで言う、頭隠して尻隠さずみたいなふうになっているのであれば、尻が出ているのをツッコまざるをえない。そのツッコミが間違いなく正しいとは限られないわけだけど。それにくわえて、二重基準(ダブル・スタンダード)にならないようにすることもいる。そうではあるのだが、この点については、たとえば弱者や一般人には無罪推定の原則で見ることがいるが、いっぽう権力者は強制力をもつ強者なので、あるていど有罪推定の前提で見るのが妥当だろう(権力チェックである)。そうした色々な視点が関わってくるところがある。

 本人が言っているのについて、それを信用できないとするのは、無責任な評価にあたるのだろうか。それについては、一つには、懐疑的ないしは批判的受容を持ち出すことができる。誰かが何かを言っているのがあるとして、それについて、それって本当なの?、と疑うことは基本として有益である。つねに疑ってゆくことがいるくらいである。

 言っていることについて、それを受けとるほうが信用できないとするのには、必ずしも無責任な評価にはあたらない。そのようにも見なせる。信用とは、何らかの主要な価値を共有していることといえる。そうした価値を共有できていないのだとすれば、言っていることを信用できないとしてもおかしくはない。

 発言した本人と、それを受け止める聞き手との、どちらの方に信用が成り立たない原因があるのかといえば、どちらか一方だけにあるとは言いがたい。信用できない原因は、送り手と受け手のどちらの側にもありえる。受け手が送り手を信用できないと評価するのには、それなりの理があると見なせる。その理は、価値のずれによるのがあるので、その価値のずれを何らかの手を打つことですり合わせられるようになればよさそうだ。

かりに政治家の国籍が日本の一本だけにしぼられていたとしても、それをもってしていざというさいの(裏切りを防ぐ)安心材料とするのには、疑問をもたざるをえない

 いざというさいに、日本を見捨てて逃げ出すのではないか。政治家が、日本のほかに国籍をもっている疑いがあれば、そうしたおそれが払しょくできない。そこについては、忠義みたいなのがからんできてしまいそうだ。

 なにか大きな不測の事態がおきたとして、日本の国籍だけをもっている政治家が、必ずしも日本の国外へ逃げ出さないといった保証はあるのか。その保証はちょっといぶかしい。それにくわえて、そうした不測の事態がおきたさいに、ほんとうだったら国外へ逃げ出したいのはやまやまだが、しぶしぶとどまらざるをえない、なんていうこともありえる。

 国籍が日本の一つにきちんとしぼられているのだとしても、それをもってして、いざいといったさいに国民のことを最後まで守りぬこうとする、とはかぎられない。そこについては、確実なことは言えないのではないか。国籍が日本の一つにしぼられていようが、それともそうではなかろうが、いずれにせよ、いざとなったさいに国民のことを最後まで守りぬいてくれるのはちょっと期待できそうにはない。

 なぜ期待できそうにはないのかというと、過去の事例を持ち出すことができる。先の太平洋戦争では日本は敗戦をしたわけだけど、その敗戦の直後に、時の権力者たちは敗戦国の国民となった人たち(日本人)を見捨ててしまったそうである。これは思想家の吉本隆明氏が言っていたことなんだけど、その時の権力者たちは、国民のことは放ったらかしで、食べるものに困っている人たちが少なくなかったのにもかかわらず、とくになにか対策をとったわけではなかった。

 敗戦をきっかけにして、時の権力者たちは、国民の前から姿を消した。責任をもって、姿をあらわそうとはしなかった。それまでは、(あってはならないことだが)戦争の手段として国民がいたわけだから、食料の配給などもされていた。しかしもう戦争をやらないとなったら、食料の配給など(権力者の)頭の中からすっかり消えてなくなってしまったのだろう。

 ほんとうであれば、貴重な資料になるのであとあとまで残しておかなければならなかったにもかからわず、戦争のさいの資料についても、大部分を焼き捨ててしまった。えんえんと燃やしつづけたのだという。あとになって権力者の戦争責任を追求されるのを避けるためだった。何よりも、自分たちに不利になるようなものは残しておきたくなかったのだろう。こうしたふるまいに、国民のためを思ってといった配慮がうかがえるかといえば、それはひどくむずかしい。

 いざといった不測の事態がおこったさいに、政治家は最後まで国民のことをおもんばかり、守りぬかなければならない。こうしたことは、そうあるべきといったことにすぎない。じっさいには、そうではないおそれがきわめて高いのではないだろうか。そうしたわけで、たとえ政治家の国籍が日本の一本にしぼられているからといっても、それにたいして大きな期待をもたないほうがよいと言えそうだ。いざとなったら、なによりも可愛いのは、(残念ながら)他人である国民ではなく、自分自身であるだろう。これが偽らざるじっさいのありようなのではあるまいか。

当事者だけに説明の責任を負わせるだけで足りるのだろうか(制度の不備や対応不足なんかもありえる)

 国籍の疑惑について、説明の責任を果たしてほしい。こうしたことが言われているわけだけど、これについては、疑惑が投げかけられている当事者だけでなく、国にも説明の責任があるのではないか。国籍のとりあつかいについて、これまでにどういったあり方がとられてきて、そこにはどういった問題点があり、これからその問題点をどのように解消してゆくのか。そういった大まかな方向性を打ち出すことがあってもよさそうだ。

 もともと、国籍はそれほど重んじられていず、戸籍のほうが重んじられていたそうだ。戦前や戦中においては、内地の戸籍を有しない者には、選挙権が与えられなかった。これは血統主義によるあり方だとされる。こうしたあり方がいまだに残存してしまっているのはいなめない。

 グローバル化している今の世界のあり方をふまえれば、これまで日本でとられてきていた血統主義民族主義を、いっそ改めるようにしてもよさそうだ。今の世界のあり方にそぐわないところがあるからである。それにくわえて、血統主義民族主義(エスノクラシー)のありかたをとるのだと、それがもとになって戦争につながりかねない。じっさいに先の大戦ではそうした原因が(主要なものとして)あげられるわけであり、その大きな負の面が識者によってさし示されてもいる。

 国籍の疑惑について、説明の責任を果たすこともいるだろうが、それはともすると、強制による暴露につながりかねない。そうした強制による暴露をうながしてしまうようであれば、差別にもなりかねないし、よからぬものである。そうした危うさが少なからぬ人たちによって指摘されている。文学についてはあまり詳しくはないのだが、島崎藤村の『破戒』なんかがぼんやりと連想できてしまいそうだ。

 疑惑があるのなら、戸籍を開示することでそれを晴らせ。そうした声が一部からあげられているわけだが、これについてはちょっとうなずきがたい。なぜ、疑惑があるからといって、特定の誰かの戸籍を開示しないとならないのか。それだったら、疑惑のいかんによらずに、すべての政治家の戸籍を開示するのでもよい。もしかしたら、隠れて、問題があるかもしれないのがある。これは、問題があるから開示できないにちがいない(問題がないなら開示できるはずだ)、といった理屈から導かれるものである。もっとも、こうしてしまうと、やりすぎであることは間違いがないが。

 血統とか民族を重んじるのではなく、どこに生まれたのかの、生まれを主とする。そうしたあり方がよしとされてもいる。これは出生地主義と呼ばれる。それにくわえて、言語至上主義として、言語による意思疎通がきちんとできるのをもってしてよしとするあり方もある。

 それぞれの親の出身国がちがうなどの、複雑な生い立ちの人は、心理的な負担が少なからずかかるものだろう。自意識の揺れみたいなのがおきてもとくに不自然ではない。そこで、自意識が揺れづらい、わりと単純な生い立ちの人とひき比べてしまうのは、公平とは言いがたい。

 いろいろな見かたがとれるだろうけど、一つの見かたとしていえるのは、負担の少ない人ではなく、負担の大きい人にとりわけ配慮できたらよいのがある。負担の少ない人を中心とするのではなく、負担の大きいであろう人に配慮するのがよい。そうしたほうが、少数者や弱者が助かるようになる。そこへ重点的に手がさしのべられればのぞましい。

 当事者による説明もいるだろうが、それとは別に、国としても、はっきりとした方向性を打ち出してもよさそうだ。大きな流れとしては、先の戦前や戦中における、外国人や他民族を極端に排斥するのをまちがったことであると見なす。そうした排斥のあり方ではなく、自由主義による市民権がとられるようにする。そうして門戸を開くようにするのも一つの手だろう。門戸を開くのはけしからんとする見かたもあるかもしれないが、開いてしまったほうが、今の日本国憲法の趣旨と整合するので、都合がよいのが一つにはある。

ゆがめられた行政を正すのはよいことではあるけど、ゆがめられた認知によっているおそれもなくはない(ゆがめられた認知による、ゆがめられた価値判断のおそれもある)

 ゆがめられた行政がある。それをゆがめられていない行政にもどす。たんにそれをしようとしているだけである。こうしたことも言われているわけだけど、そもそも、ゆがめられた行政とは何だろうか。そこがちょっと腑に落ちない点である。

 ゆがめられた行政を言うのであれば、事前に言っておくべきだったのではないだろうか。事前にもっと大々的にみなに告げ知らせておく。そのほうが、大衆を味方につけやすそうだ。そうではなく、あたかもとってつけたようにして、事後的に言っているのであれば、いぶかしいところがある。

 たんに、覇権のとり合いをしているにすぎない。こうして覇権をとり合うようにして争うのであれば、誰が覇王になるのかを競うことになる。これだと覇道になるわけだが、そうではなくて、王道とは何かをあらためて見てみることもできるだろう。

 ゆがめられた行政がのぞましくはないにしても、そうして一概に決めつけてしまうことはちょっとできそうにない。その点については、頭ごなしに決めつけてしまうのではなく、ここがまちがっているだとか、ここはおかしいだとかして、一つ一つを指し示してゆくようにする。それで議論をやり合うのがのぞましい。

 誰が覇権をにぎるのが本来のありかたなのか、といった点もあるが、それとは別に、どのような帰結がありえるのかをふまえるのがあるとよさそうだ。ゆがめられた行政の元凶とされる官僚組織において、何から何までまちがった提案が出されるとは見なしづらい。もし、何から何までまちがった提案が出されるのであれば、官僚組織を抜本的にあらためることがいる。すべてを刷新するための革命を全面的にやってゆくことがいるだろう。一部だけをあらためてもさしたる効果はのぞめないのではないか。

 覇道によるたんなる覇権の奪い合いに終わらずに、王道によってやってゆくのがあればよい。そのさい、性善説によって見るのよりも、性悪説によって見るのがいるだろう。でないと、覇権を握ることができた者が善、みたいにしてとらえられかねない。そうとは限らないのはたしかであり、覇権を握っている力ある者が、正しいことを必ずなすとは言えそうにない(むしろ逆なことが少なくない)。決定単位である有権者がいて、その意思をになうとされる代表者がいる。その代表者を頭から信頼してしまうと、専制主義になりかねない。

 ゆがめられた行政がよからぬものであり、けしからんものなのだとしても、それを改めるのが、建て前であるおそれがある。その建て前が、本当にゆがめられた行政の悪いところをあらためて、みなに益になるようにしようとするのであれば、それはよいことだろう。しかし、そうではなくて、建て前とは別に、ちがった本音をもっていることがありえる。これは性悪説による見かたなわけだけど、こうした見かたもあってよさそうだ。政治家の義があり、官僚組織の義があるとして、義は単一ではなく、複数あるのでもよい。単一になってしまうと、暴走するおそれがある。

 人間には合理性の限界があり、限定されている。どこから見ても非の打ちどころのないようなものを見いだしづらい。それがあるわけだから、できるだけ自己触発による独話におちいらないようにして、他者触発による対話がなされればのぞましいだろう。そうすることで、いたずらな分裂や敵対にいたらずに、相互の関わりが形づくれるようになることがのぞめる。一方向の押しつけではなく、双方向でやってゆく。そうして修正しつつものごとを進められればのぞましい。

帰属による同一性だけではなく、個性が発揮されるのがあってもよい(帰属があって個性がないよりかはよいかも)

 戸籍の公開を求める。二重国籍の疑いが完全に払しょくされていないとして、民進党蓮舫代表に、一部からの疑いの目が向けられている。蓮舫代表は、その求めに応じるかまえも見せている。

 蓮舫代表の説明によれば、自分で法務省に出向いて行って、そこでしかるべき手続きをすませてあるという。法務省は国の機関なわけだから、さすがにそこが関わることについて嘘をついているおそれは高くない。そのように見ることができるのではないか。自分ひとりでの内部の何かであれば、嘘をつくこともありえるわけだけど。

 国籍においては、国が関わっているものなわけだけど、国とは実在しているものなのか。実在していると見なすありかたもあるが、そうではなく、擬制(ロールプレイ)であるとも言える。国は法人であり、法人は擬制であるとする説があるそうである。そうしてみると、国籍とは何か手でさわれるような触知可能(タンジブル)なものとは言えそうにない。虚構のものである。

 共同幻想であり、虚構であると言い切ってしまうと、反感を買うおそれがある。そのおそれはあるが、かりにそうであるとして、国籍は帰属点(役割)であると見なすことができそうだ。それ自体に何か大きな意味があるとは言えそうにない。仏教でいえば、空であるともいえる。本質といったものはない。

 帰属のいかんにとくに焦点を当てることもできるわけだけど、ほかの別な何かにも当てることができる。たとえば文化だったり言葉だったりをしっかりと身につけているだとか、そうした内実である。内実があるのであれば、それでとりあえずはこと足れりとすることもできる。

 その国の政治家として、政治活動をやってゆく。そのように本人が言っているのであれば、いちおうそれを信じることができる(疑うこともできるわけだけど)。これはスポーツでいえば、味方チームの一員になるとするのに等しい。野球やサッカーなんかでも、ちがう国の人(または元ちがう国だった人)が味方チームの一員として活躍したり貢献したりすれば、それは味方チームの加点につながる。ちがう国の人が監督として、味方チームを導いてゆくこともありえる。

 たとえちがう国の国籍をもっていたからといって、それによってレッテルを貼ることは必ずしもいらないものだろう。そのようにレッテルを貼ってしまうと、公平になりづらい。選択的賞罰(セレクティブ・サンクション)を与えることにつながりかねないところがある。そこは選択的(恣意的)にではなく、ほかの人と同じようにして、よい活動をすれば認めればよいし、よくない活動をすれば批判をすればよい。その評価のしかたは、ほかの政治活動をしている人よりもとくに厳しくするのではなく、またとくに甘くするのでもない。そのようにできればよいのではないか。

 日本ならではみたいなのを強調することもできるわけだが、それとは別に、たんに人間であるといったので見ることもできる。日本ならではの立場に立ってしまうと、日本のためになるかそれともならないかだとか、日本にふさわしいかどうか、といったふうに見なすことになる。日本の国の枠組みも大事なものではあるが、そのいっぽうで、観念であり記号であるにすぎないものでもある。

 日本の今のありかたにどうもしっくりこなかったり、適していないと見なされてしまったりするような、不遇な境遇の人もありえる。そうした多数派でない、日の目を見づらい人たちへ目を向けるためには、(日本かくあるべしといったのではなく)たんに人間であるとする視点が少なからず役立つ。そうしたわけで、日本の国としての枠組みにこだわらないで、たまにはそれを外すことがあってもよさそうだ。人間はみな同じであり、それは個人の尊重の一側面となる。その一面が軽んじられないようであればさいわいだ。

政権をおとしめるべく企んでいると見なすだけなのであれば、迫害妄想におちいっているおそれもないではない(そこに目的があるのではないとして見ることもできる)

 みんなの利益につながらないことが行なわれている。一部の人たちに利益が誘導されてしまっている疑いがけっして低くない。そうではなく、ほんらいであれば、なるべくみなに利益が行きとどくようにしてゆくことがいる。そうした配慮にいちじるしく欠けてしまっているのがあるのだとすれば、そこを指摘することをせざるをえない。

 こうしたことから、疑惑をさし示す。このさい、そうして疑惑をさし示している人について、あるていど信頼をおくことがいるだろう。好意の原理で見るのである。そうすることによって、価値を共にすることができる。

 疑惑をさし示している人について、信頼をおけず、不信をもってしまう。好意の原理で見ることができず、悪意によって見てしまうことになる。こうなってしまうと、価値を共有することができないようになる。直情径行によって相手を断じてしまう。

 疑惑があったのだとしても、それをさし示すことをしない。このようであれば、権力にとって都合がよい。そうではなく、たとえ権力に煙たがられたりにらまれたりするとしても、それをいとわずに指をさす。そうして指をさすことが、毒をもつことになる。毒とは言っても、それは薬とうらはらだ。猟犬のようにして、残された痕跡をもとにして、指をさし(ポインター)、囲いこむ(セッター)。あるいは虻(あぶ)のようにしてつっつく。眠りこませないようにする。

 なにか決定的な証拠があれば、それに越したことはない。そのように言えるわけだけど、だからといって、そうした決定的な証拠がなければ、それで白としてしまってもよいものだろうか。そこが疑問である。一かゼロかの問題ではないといったふうにも見ることができる。

 疑惑をさし示している人がいるとすれば、その人が証拠をさし出さなければならない。明らかな証拠を出せないのだとしたら、疑惑をさし示すべきではない。そうした意見もある。これについては、その疑惑をさし示す人が、自分の利益を主張しているのであればそれが当てはまる。しかし、自分の利益を主張しているのではなく、みんなの利益を言っているのであれば、当てはまりそうにはない。そこのちがいは小さくないだろう。

 立証責任や挙証責任については、疑惑をさし示す人がそれを負うとも言われる。しかしこれはかならずしもそうとは言えないのがある。立証や挙証の責任については、ふつうに見れば、だれか特定の一人に帰せられるものとはいえそうにない。だれか特定の一人に帰してしまうようであれば、無理難題をふっかけてしまっているようなものだし、前提がちょっとおかしいところがある。

 前提がおかしいというのは、(立証や挙証の責任を負う)特定の一人だけが、自分の私益を肥やそうとしている、と見ることになるからである。しかし、その特定の一人だけではなく、行政にかかわるあらゆる人が、自分の私益を肥やそうとする可能性をもつ。ゆえに、特定の一人だけが私益を肥やすべく悪だくみをしようとしている、と見なすのは納得しがたい。責任のすり替えであり、非をなすりつけることになる。

 行政にかかわる誰もがみな、私益を肥やすべく悪だくみをするおそれがある。ゆえに、そうして疑われることをあらかじめ見越しておいて、そうではないと明らかにできるように、記録をとっておく。いざとなったときにそうした客観の記録を出せないのであれば、(みなが負うものである)立証や挙証の責任を無視してしまっていることになるのではないか。

 立証や挙証の責任うんぬんを持ち出すのよりも、むしろ政権は、これこれこうであるから自分たちには非がない、というべきなのではないかという気がする。記録が出せないだとか、記憶が無いだとかいって、それで非がないとするのであれば、ちょっと虫がよいことにならざるをえない。そこについてはやはり、何らかの形のある根拠や理由を示して、それだから非がない、とするのがのぞましい。これによってはじめて、何かを言ったことになる。そうした面がありそうだ。

 非がとくに無いにもかかわらず、行政をいたずらにおとしめようとして、足を引っ張っているようなのであれば、それはいただけない。そのいっぽうで、行政を神として、行政にいちゃもんをつけてくる人を悪魔と見なしてしまうのがありえる(その逆もあるが)。そうしてどちらかを神としたり、どちらかを悪魔としたりしてしまうのだと、やりすぎになる。神のような悪魔だったり、悪魔のような神だったりすることがある。そこについては、決定不能性があるのが避けづらい。国家は暴力を独占するものであり、最大の暴力組織でもある。暴力とは、うとましいと見なす者の排除にほかならない。その点も無視できないものである。

 まちがった妄想におちいっている、といたずらに決めつけてはいけない。そうした面はあるが、誇大妄想はいずれその鼻をへし折られる、といったこともいえる。これは景気の波動のようなもので、極大と極小が循環することをあらわす。景気であれば、それが浮揚しつづけるといったことは成り立ちづらい。いったん浮揚したものは、そのごに沈む。季節でいえば、春(夏)と冬との交代である。

 誇大妄想とは何かといえば、それは過剰さである。過剰さをもつがために、誇大妄想がおきて、それによって存続の危機をまねく。そうした危機とは、根も葉もないところからおきてくるものではなく、過剰な活力を処理するための必要欠くべからざるものと見なせる。

 誇大な妄想におちいっているとする論拠は何か。それは確実なものとはいえないけど、一つには、相手の全否定がある。相手をもし頭ごなしに全否定しているのであれば、そこにおいて、妄想の兆候があらわれているおそれがある。そうではなくて、逆に肯定するのであれば、相手をあるていどは冷静に見られていることにつながる。いったん肯定しておいて、そのうえでここはちがうだとか、ここはおかしいだとか、そういった批判なら溜めがあるので無難である。

 いっけんすると消極的で否定的なものではあるが、あえて自分から非や不徳を認める。そうして認めるのは、すごくむずかしいところがある。そのむずかしさがあるわけだが、それを達成することによって、膨らみすぎた誇大妄想がしぼみ、等身大に近づく。そのようなことがのぞめる。過剰な活力がうまく処理されたわけである。そうして大いに活力が消費されることによって、肺から息を吐ききったときのように、新しい空気を吸うことができる。そうではなく、息を吐ききるのを拒んでしまえば、古い空気が肺にたまったままとなる。偉そうなことを言ってしまったが、そのようなことが言えそうだ。