戦争のできない国は危ないのか

 戦争のできない国は、危険である。この意見ははたしてほんとうなのだろうか。この意見が書かれた記事があったんだけど、それを最初から最後まで見たわけではないから、正確なことはいえそうにない(有料記事だったので)。おそらく、題名から察すると、戦争のできない国は危険だから、戦争のできる国にしたほうがよい、といったことなのだろう。もしこの結論であるとすれば、それにたいして反論してみたい気がする。

 戦争のできない国には、利点がある。そのように見なしたい。というのも、それはコミットメントの効果がはたらくからである。この対他的な確約は、有言実行みたいなものであるとされる。あらかじめ、日本は戦争をしません、と明言しておけば、それを他の国が前もって知ることができる。日本は戦争をする気がないんだな、ということを前提として、つき合いをすることができる。

 この戦争をしないというコミットメントは、贈与の効果をもっていそうだ。他の国にたいして、戦争をしないという贈与をすることになる。これを他の国はこばむことはできない。したがって、何らかのかたちで対抗贈与をすることになる。もちろん、絶対にするとは言い切れないわけだけど、贈与されたままで、返礼しないでいるのは決して快いものではない。他に負い目をもたせる効果があるわけだ。

 こちらが無防備なのをよいことに、出し抜くようなかたちで相手にしてやられることも、ありえないことではない。生き馬の目を抜くような国際関係というのもありえる。お人好しであれば、馬鹿を見たり損をしたりしかねない。そういったおそれもある。しかしこれは、どちらかというと性悪説の側に立ちすぎな気がする。もうちょっと性善説の側に立って見ることもできるのではないか。

 少なくとも、戦争をしないというコミットメント自体は、非の打ちどころがないような、善いものではあるだろう。もちろん、これは見かたによっては、けしからんものであるとしたり、(そそのかされているなどとして)悪いものであるとしたりすることもできる。そのうえで、かりにこのコミットメントそのものは(平和的であるという点において)善いものであると仮定すると、このコミットメントを行っている日本という国は、少なくともその点においては善いありかたをとっているのかなと感じる。

 あまり確証があるわけではないから、説得力に欠けるかもしれないが、正直いって、わざわざ日本を何らかのかたちで攻めてこようとするような国は、ちょっと想像しづらいような気がする。いやそれはまちがったふうに想像しているだけだ、との非難を受けるかもしれず、その非難は(自分で言うのもなんだが)正しいおそれがある。底が浅いだけかもしれない。そのうえで、日本以外の他国は、日本をわざわざ攻めてこようとする動機や誘因(インセンティブ)をそんなに強くはもっていそうにないと個人的にはとらえている。総合すると、利が薄いのではないか。

 人や集団は基本として誘因にもとづいて動くという説をふまえれば、誘因が弱いのだから、(絶対にとは言えないにせよ)攻めてはきづらいのではないか、という気がする。思いちがいもはなはだしいだとか、無責任きわまりないだとか言われてしまうかもしれないが。

 物理的な防衛という点でいえば、自衛隊がいるし、個別的自衛権で対応することができる。これでこと足れりとせずに、さらに拡大しようとして、集団的自衛権なんかをやってしまうと、かえって逆効果になりかねない。いざというさいに、誰がいちばん命の危険にさらされるかということで、その危険な目にあうおそれのある人の志気の問題は決して無視できない。むりやりに志気を出すことはできないのではないか。欺まんもはなはだしいかもしれないが、できるだけ現場の人の志気が保てるようなありかたがのぞましい。それは、できるだけ身の危険にさらされないようにするということである。

お金を使わないようにする案

 みんなが 1日 100円ずつお金を使うのを節約する。そうすれば、経済指標が悪くなり、いまの政権を倒すことができる。こうした意見があって、それが批判を受けていた。たんに見ていただけなので、とり上げるのはちょっと卑怯かもしれないが、どこがいけなかったのだろうか。

 まず、いまの政権を倒すことに価値を見いだしている人は特定の数はいるのはまちがいない。しかしそれ以外の人も少なからずいることもたしかだろう。なので、この話に乗ろうとする人ばかりではない。ウェブは不特定多数の人がいるので、特定(多もしくは少)数に理解してもらえることでも、全体に向けて協力を募ってしまうと、とうぜんのことながら、非協力な人が生じてしまう。

 お金を 1日 100円よけいに使おうといっているのではなく、使わないようにしようと言っているのだから、みんなの賛同をあるていど得やすいとも想定できる。しかし、100円お金を使わないようにしようというのは、我慢しようというのを意味するから、そこがあらためて見ると印象が悪い。なぜわざわざそんなことをしないといけないのか、との不満が生じる。

 経済指標というのは、それが悪くなってしまうよりも、よくなるにこしたことはない。たとえ雰囲気だけであるにせよ、悪いよりはよいほうが気分もどことなくよい。たとえ富のこぼれ落ちがないのだとしても、それがあるかのようなつかの間の幻想を抱けるのもある。経済指標というのは、公に属することであり、それは私よりも優先される。公は世間といってもよく、世間に楯突くことは許されるものではない。そうした空気を無視せずに読むことが、波風を立てないためにはいるのかもしれない。

 お金を 1日 100円使わないようにすれば、経済指標がもろもろ悪くなって、いまの政権を倒すことができる。これは発想としては線的である。最後の審判が下されるみたいなふうだ。いまの政権が倒れて、そのごに、少なくとも今までよりはのぞましく、よりよいありようになることをのぞんでいる。とはいっても、そこに確実性は必ずしもないわけだけど。こうした線の発想よりも、どちらかというと円によるような、循環的な、今さえよければみたいなものが好まれていそうだ。

条件つきではないものの必要性

 傾向性か義務か。傾向性というのは、自分の利害だとか感情の傾きなんかをさすという。そういう自分の思わくではなくて、そうしたものから切り離されたものが義務であるとされる。この義務というのは、条件的なものではなく、無条件的なものである。条件的というのは、たとえば、自分に有利になるから決まりを守ろう、だとかいうことである。そうした頭(または心)での計算によらないあり方が、無条件的なありようだ。たんに守る、みたいなふうである。

 なぜ、傾向性をよしとせず、義務をよしとしたのだろうか。または、仮言(条件)命法をよしとせず、定言(無条件)命法をよしとしたのだろうか。専門家ではなく、あくまでも生半可で中途半端な素人だから、かんちがいをしているおそれが高い。そのうえで、哲学者のカントがこうしたことを説いたそうなんだけど、あらためて見ると、すごいことだなあと感じたのである。

 そのすごいなあと感じた点は、相対主義にかかわっている。義務をよしとして、定言命法をとる。それは、傾向性を退け、仮言命法をよしとしないことだ。こうしたありかたをとるのは現実にはひどく難しいだろうが、もしそれができれば、相対主義のあまりにも不毛な悪循環を断ち切ることができるのではないかという気がする。十把一からげではなく、なかにはよい相対主義もまちがいなくあるだろうけど、何でもありみたいなふうになってしまうといささかまずい。

 たとえば、それぞれの傾向性をよしとしようではないか、との主張が成り立つ。あるいは、それぞれの仮言命法をよしとしようではないか、との主張も成り立つだろう。こうなってしまうと、極端には、悪い相対主義におちいらざるをえない。そこから、詭弁が巷にはびこってしまうようになる。お前には言われたくはない、みたいなことだ。詭弁が巷に広くはびこってしまえば、収拾がつかないような事態になってしまいかねない。

 とらえ方がもしかすると間違っているかもしれないのだけど、たとえば人権なんかを見るにしても、そこには無条件的なところがある。生まれながらの自然的権利であるためである。しかし、こうした自然権を、相対化または無化してしまうこともできる。あるいは、権力に都合がよいように、支配と被支配の図式を隠ぺいするような形で用いられてしまう。

 人権をいたずらにふりかざして話をしてしまっているとすれば、それはまことに申しわけないのだけど、なぜそれを持ち出すのかといえば、自然権である人権は、条件的なものではないからである。無条件的なものであると言ってよい。であるから、なにか条件をつけて、それを満たしていないから、侵害してもよいということにはならない。

 そうはいっても、絶対に批判や非難も何もしてはならないというわけではないだろうが、まったくのゼロにはならないというのが味噌である。きれいな手(クリーン・ハンズ)の原則が適用されないわけだ。こう言うのはなんだが、汚い手の人(汚い手と見なされている人)にもきちんと権利がある。というより、多かれ少なかれ、何らかのかたちで皆の手は汚れていると言ってもよい。暴力性や攻撃性は、人間がこの世に存在するかぎりついてまわる(悟りに達した人を除いて)。こうして見てみれば、相対主義の詭弁みたいなのを封じられることが若干のぞめるけど、しかしじっさいにはあまりうまくは行かないかもしれない。

危険さに応じた対策のちがい

 テロ対策については、それをやるかやらないかがある。やらないでいるよりかは、少しでもやって前に進んだほうが、若干ではあるにせよ安全性が高まる。そうしたことが言えそうだ。しかし、そのような見かただけではなく、ほかの見かたもおそらく成り立つ。

 平和主義についてのとらえ方が関わっているとできる。従来のものと、それとはちがった、安倍晋三首相がかかげている積極的平和主義とのちがいがある。なぜ反対の声があるのに、それを押してまでしても、テロ対策をしないとならないのか。それは積極的平和主義がかかわっているせいだろう。

 積極的平和主義では、従来のありかたを大幅に踏み越えた、平和についての世界への積極的な関与をめざしている。とすると、必然的に、どうしても存在が目立ってしまうようになる。目立つというのは、他から狙われやすくなることにつながってくる。狙われやすくなってしまうせいで、テロがおきる確率もまた上がってしまう。

 反対の声が上がっていても、それを聞き入れることなく、テロ対策を強行しようとする。その背景には、戦略としての積極的平和主義がかかわっているのがある。そのような面があるのかなという気がする。

 積極的なものではなく、従来の平和主義の戦略をとるのであれば、反対の声を押してまでもテロ対策を強行することはする必要がない。強行の手段をとらないで、みなで話し合うなかで少しずつ対策の歩を進めてゆくことができる。とはいえ、もしかしたら、とりまく現状への危機意識が足りないのではないか、との批判を受けるかもしれない。そのうえで、へたに危機をあおりすぎず、議論の(過熱ではなく)冷静さというのもあったほうがよいだろう。

 従来の平和主義であれば、かりにテロ対策を行うにせよ、たとえば漢方薬でいわれる上薬のような手が打てる。上薬というのは、穏やかに効き、長期的に益になるようなものである。しかし、積極的平和主義の戦略をとっているのだと、下薬みたいな手を打たざるをえない。下薬は、作用のみならず副作用も強く、長期的には益を大きく損なうおそれのあるものをさす。

 危険性が高まっているのだから、それに対するしかるべく対応をしなければならない。それはたしかにそうなのだろうけど、その前に、とっている戦略から導き出される国際的な目立ちやすさ(プロファイル)の観点がふまえられるのではないか。目立ちやすくて、かつ安全でもあろうとするのは、投資でいえば、ハイリスク・ハイリターンをめざすのに等しそうだ。そこに無理が生じてきてしまうのだとしても不思議ではない。

 もともと、積極的平和主義というのは、従来の意味での平和主義とは異なっているものだろう。したがってそれは、平和主義とはいえないしろものだと言わざるをえないところがある。似て非なるものだ。世界は大国の思わくで動いているところがあるとすれば、そこにわざわざ表だって乗っかるのはいかがなものだろうか。積極的平和主義というよりは、その実態はたんなる大に事(つか)えるだけの、事大主義になってしまう。これは他律によるあり方だ。

 アメリカをはじめとする大国が、平和について的確な判断をこれまで下してきたのかといえば、その逆であると言わざるをえないところもありそうだ(例外は一部あるかもしれないが)。大国にたいして(安全面で)借りがあるにせよ、へたな義務感や義理に、必要以上にかられることはいらないのではないかという気がする。こちらもまた相手へ貸しがあるわけだし。そこは経済学でいわれる埋没費用(の錯覚)みたいなのも多少は関わってくるかもしれない。こちらが埋没費用についてをきちんと認知できていれば、(相手への借りの意識からくる)義務感や義理に過剰にかられることを抑えられる。

読み書き(リテラシー)について

 教育は、基本として、読み書きとそろばん(四則演算)くらいができさえすればよい。じっさいの教育では、それだけではなく色々なことが教えられていて、それはそれで大切なことではある。昔の寺子屋なんかだと、核のようなものとして、読み書きとそろばんくらいに内容が絞られていたのだろうか。

 学校で教えられたことは、そのごの人生の中では、ほとんど忘れられてしまうことが少なくない。なぜかというと、じっさいに教えられたことを使う機会がほとんど無いせいだろう。使うことがないことを頭に詰めこまれてしまっているところがある。しかし、すべての子どもには無限の可能性があるという(大)前提があって、どんな可能性が秘められているのかが定かではないために、いっけん無駄なことのようでも、いちおう意義があるのだとの説明も成り立つ。

 読み書きとそろばんというのは、基本のきであるし、初歩のものにすぎない。しかしながら、あらためて見ると、そろばんはともかくとして、読み書き(リテラシー)というのはあんがいできているようでいてできていないふしがある。世界でおこるできごとや事件にたいして、それをきちんととらえるためにいる条件みたいなのがある。そうした条件をきちんとあらかじめ備えているのかというと、けっこう危ういものだといえそうだ。

 そんな条件など、あらかじめもっている必要などはとくにない。色々なものごとについて、多少の判断を下すくらいのことは、誰にだってできることである。生きてゆくなかで自然と身につけた情報と経験を用いればよいのだ。それに、生まれもって備わっている感性というものがある。そうした感性を十全にはたらかせれば、かりに脊髄反射のようであったとしても、判断がまちがうことはあまりない。直感を信じるようにすればよいのである。

 あまり正確にはわからないのだけど、西洋における、イギリス経験論と大陸合理論のちがいみたいなのがあるかもしれない。ものごとをとらえるさいに、しかるべく前提知識や条件みたいなのを備えておくことがいるとするのは、イギリス経験論に当たるだろう。いっぽう、そうした前提知識や条件なんかが不要だとすれば、それは大陸合理論に当たりそうだ。

 どちらのあり方が正しいのかというのは、一概には言い切れないものだろう。くわえて、かなり大づかみに分けてしまっているために、きちんと的をえているとは言えないかもしれない。そのうえで、読み書き(リテラシー)の取得をあまりに重んじてしまうと、それを身につけるための労力や費用が多くかかってしまうようになる。既製品では間に合わず、自分ならではの必要性があるのも無視できない。自分にとってとくに意味があり、必要なことは、自分だけにしかわかりづらい。

 読み書き(リテラシー)の取得をまったく軽んじてしまってよいのかというと、それはそれでまた別な問題がおきてくるおそれがある。読み書きの取得というのは一種の迂回みたいなものだと言えるとすれば、そうした迂回をまったく経ないで最短距離を行こうとする。こうなると、直接的現前であったり、近道をとろうとしかねない。しかし、文化というのは、こうした直接性や近道を禁じるところに成り立つところがある。

 読み書きの取得についての労力や費用がかかりすぎるようだと、それについてのあきらめみたいなのが生じてしまうのかもしれない。ゆえに、読み書きの取得という迂回を経ないで、それをかぎりなく無くそうとする。こうしたふうになると、かぎりなく読み書きが必要最小限度になるおそれがある。現実の複雑性にたいして、できるかぎりの単純化をするようになる。この複雑さと単純さのどちらかにかたよると、危ないことになるのではないかという気がする。

 何かを象徴としてとらえてしまうと、それがひとり歩きしてしまいかねない。象徴と化してしまうと、部分が(邪魔なものとして)切り捨てられてしまう。部分がなくたって、肝心の本体である幹があればそれでこと足りる。そのように見ることもできるが、しかしたとえとるに足りない枝葉のように見えても、そこが大きな意味をもつこともなくはない。神は細部(ディティール)に宿るとも言われている。中心となる言明にだけ目を奪われてしまっていると、細部がないがしろになりかねない。

 読み書きの構造みたいなのがあって、その構造のちがいというのが人それぞれにあるのではないか。癖みたいなものである。この構造は、ふつうは補強されることはあっても、補正されることはほぼない。補強する機会は日常でいくらでもあるが、補正する機会というのは非日常のごくかぎられたものによるだろう。構造論において、主体というのは、そうした構造のなかのたんなる一部分または結節点にすぎないとされる。構造のにない手である主体は、一つの痕跡でもある。

 われわれは、あまりに当たり前になってしまっているふるまいについて、あらためて見直すきっかけをもちづらい。であるから、たまには自分のよって立つ構造みたいなのを意識することがあってもよいのかも。あまりに当たり前となっている自分の日常におけるふるまいというのは、どうしても意識することが無いものだろう。そうであるからこそ、そうしたところに持ち前の調子だとか傾向(色)が出やすいのかもしれない。偉そうなことを言ってしまったかもしれないが、できるだけ(自分ではなく)他者からの触発を多く受けてゆくようにできればのぞましいと感じている。

安全を期すことにおける、弁証法的な光と影の反転(啓蒙の野蛮化と、理性の頽落化)

 安全ということにかんしては、安全性が高まるか低いままかといったことがある。低いままであるよりかは、少しでも高まったほうが、それに越したことはない。そうしたことが言えそうだ。しかしじっさいには、そのように単純なあり方をしていそうにはない。

 意思決定をする主体の利益というのがかかわってくる。もし自分が利益を失いづらいのであれば、どんどんとリスクをとっていってしまう。なぜそうしてリスクを愛好してしまうのかというと、自分が失う利益が無いか、もしくは少ないからである。逆に、自分が失う利益がもし大きければ、リスクから遠ざかろうとして、回避的になる。

 意思決定をになう主体の利害という観点をふまえることがいる。なにか勇ましいことを言うのは、その裏には、自分が利益を損なわないからという理由による。そのような構造がありえる。こうした構造のほかにも、またちがった構造もあるのだというのを無視することのないほうがよい。

 威勢のよいことを言って、それで受けがよくなるのだとしても、その手法はあぶないところがある。どのような時代においても、たいていは、威勢がよくて勇ましいことを言うのは、受けがよいし通りがよいものであると言われる。逆に、臆病なことを言うのは受けが悪いし通りも悪い。軟弱だと見なされてしまう。

 認識を導く利害関心というのがあるそうだ。これにおいてやっかいなのは、肝心の利害関心というのをかんちがいしていたり、間違ってとらえているおそれがある点である。あるものについて、これは利になるとか、これは害になるといったのを、かんちがいしたり間違ったりしてとらえていると、そこから導かれる認識も大幅にずれてくる。ずれたままで視点が固定化されて、かたくなになることもある。そうであるよりかは、できるかぎり柔軟であったほうがよい。

 いったいに利と害というのは別々ではなく背中合わせになっていることが多い。したがって、それらを別々に見なすよりかは、同じものの別な面として見たほうがよさそうだ。どちらかを強調するのだとしても、それは構造や文脈のちがいでもあるから、一方が完全に正しかったり間違っていたりとはなりづらい。

 いざとなって、何かよからぬことがおこったさいに、そこで追加的にふりかかる利益や害は、人によって異なってくる。そのちがいを無視することはまずい。みんなに平等に利益になるわけではなく、そこに格差(ディバイド)や分断があるとすれば、その溝を隠してしまうのではなくて、逆に光を当ててゆくのがよさそうだ。

敵(遠)と友(近)の、異邦性と同胞性

 けものフレンズというアニメがあるようだ。恥ずかしながら、きちんと見たことはない。このアニメの主題歌を歌う人たちが、テレビ番組のミュージックステーションに出演していたそうで、そのさい、司会のタモリ氏にたいして、イグアナのフレンズだとしていた。イグアナのものまねの芸をやっていたからなのかな。それでいえば、4ヶ国語マージャンの芸もあるから、4カ国(中国や朝鮮半島の国など)とのフレンズでもありそうだ。

 英語にはそこまで通じてはいないのだけど、フレンズという語はよいものだなと感じる。当たり前ではあるが、いかにも友だちだということがありありと迫ってくるかのようである。たとえば花子という人がいるとすると、花子とその友だちは、hanako and her friends となる。このフレーズは、ひとかたまりでグループ化されていて、いかにも一人ではないといったつながりのありようが見てとれる。個で自立していながらつながっているというあんばいだ。and は等位接続詞だから、おたがいが対等でもある。

 なかには悪友というのもあるかもしれないから、そうであれば注意しないとならない。付き合う仲間しだいで、よくも悪くも自分が染まってしまう面がある。ありきたりではあるが、そのように言うことができる。友と見なすからこそ、あえて厳しいことを言ってくることもあるだろう。苦言を呈してくるから敵だとはかぎらない。そうしたことで、友と見なすことができれば、肯定的なものにもなりえる。ちょっとお花畑的な発想かもしれないが、友だちの友だちはみな友だちだ、とのタモリ氏のかつて言っていたことも、たまには思いおこしてもよいものかもしれない。

最低賃金を上げるためのデモ

 最低賃金を 1500円に上げよ。そうしたデモが行われていたようだ。これにたいして、そんなことをやっている暇があるなら、その時間で働いたほうがお金が得られるではないか、との意見があった。デモをやっていても 1銭にもならない。

 機会費用によって見てみれば、デモに参加することで得られる心理的な効用がかかわってくる。この効用がその人の中ではとても大きいものであるとするのなら、デモに参加するのにも合理性があるのではないか。動機づけがはたらく。

 デモに行かずに代わりに労働すれば、確実にお金が手に入ることはたしかだけど、それはある面では分かりきったことにすぎない。新しい価値の創造というのは、不確実なことにとり組むことによってはじめて生まれる面がある。

 うわべではお互いの合意による契約の形に労働はなっているわけだけど、じっさいにはそれはまったくの対等なものではない。どのみちどこかで働くとすれば、多かれ少なかれ雇い主によって搾取されてしまう。労働者というのはこき使われてしまう側にあたるわけだけど、これは権力による支配をこうむることを意味する。そうしたあり方への抗議の面もあるとすると、デモによって声を上げることにも大いに意義があると言えるだろう。

ミサイルの二次被害(危害)

 国外からミサイルが飛んできた。それが国内に落っこちてしまい、大きな被害をもたらす。そのさい、ミサイルを打ってきた国外の相手を責めるのが筋だろう。しかしそうはせず、国内にいる気に食わない人たちを責める。

 なぜミサイルを打ってきた国外の相手ではなく、国内にいる気に食わない人たちを責めようとしてしまうのか。これは、知らずうちに心理的にすり換えてしまっているからだろう。ほんらいは、国外の相手に原因があるわけだから、そこに直接に文句を言いに行くなりやり返しに行くなり自分でしないとならない。しかしそれにはさまざまな個人の費用がかかる。その個人の費用をかからなくするために、ほかの手近なもので代用するわけだ。経済性の省力化の論理である。

 国内にいる気に食わないと見なされる人たちは、とばっちりを食うことになりかねない。ミサイルが国内に飛んできたこととは関わりがないわけだし、ぬれぎぬを着せられてしまう。そもそも、ミサイルを国内に向けて飛ばしてきた国においても、その国民そのものには責任がないこともありえる。責任者というのはおおむね政治権力を握っている、決定を司る者に当てはまるからである。よって、たとえ気に食わないのだとしても、国内にいる人を叩いてしまうのはできるだけ止めたほうがよさそうだ。