ビールと水素水

 ビールはただの水ではない。それと同じで、水素水もただの水ではない。そうした説明がされていた。そもそも、ただの水というのは何をさしているのだろうか。というのも、もしただの水があったとしても、これはただの水ではないんですよ、という説明は成り立つ。そう言われたら、(人によっては)ただの水ではない気がしてくるのではないか。ただの水を一般であるとすると、ただの水ではないのは特殊にあたりそうだ。

 特殊な水というのは、水への信仰みたいなのと関わってくるものなのだろう。ふつう水といえばたんに水分の補給に役立つものである。しかしそれ以上の何かが加わると見ることで、特殊さが出てくる。特殊さが極まれば、奇跡でさえおきるかもしれない。

 ビールであれば、そこにはアルコールが含まれているから、体のなかでは毒としてはたらく。その毒は肝臓で解毒される。効果としては、酔いが生じてくる。酔いやすさは人によって異なり、体が小さい人のほうがわりあい酔いやすいと言われている。

 ビールと水素水を比べることははたして妥当なのかな。水分という点で見るとこの二つは同じものである。しかし、そういうことであるなら、たとえばビールと泥水とを比べることもできる。泥水もただの水ではない。でもこれはふつうは飲もうとはしないから、ちょっと意味あいがちがってくるかも。ただの水ではないものの中には、泥水も含まれることになるから、その範ちゅうの中にはいろんな価値があり、中にはマイナスなものもあるし、ゼロ(じっさいにはたんなる水)なものもまぎれこむ。

 水素水は飲んだことがないからよく分からないが、何らかの効果があると期待されるものだろう。しかしその効果というのは、基本としては因果関係が関わってくる。もしかすると、水素水には何の効果もなく、まったく無意味であるおそれもなくはない。水分の補給以上の意味はとくに無いということである。客観としてはそうだとしても、主観として意味づけすることもできる。これは水素水にたいして意識の志向性がはたらいていることによる。そうなると、かりにただの水であっても、ただの水ではないということになるわけだ。

歴史認識の自由

 自由主義では、言論の自由がある。そこにおいては、これが絶対に正しいといった歴史認識はない。こうしたふうに見てしまうと、何でもありとなってしまう。何でもありというのは、さすがにちょっとちがうような気がする。自由主義だとは言っても、立憲主義的な自由主義であるとすると、つながりとしての公への配慮みたいなのがいりそうだ。自由至上主義であれば別なのかもしれないが。

 絶対に正しいものがないとしても、それだから何でもよいとしてしまえば、自由主義史観をまねきかねない。こうしたあり方はあまりのぞましいものとは言えそうにない。過去のマイナスの歴史からの負荷がまったく無いのであれば、それは非現実的だ。公共の福祉に反しないかぎりでの言論の自由はあるわけだけど、これは多数派だけではなく、少数派にも十分な配慮がなされることがあったらよさそうである。公共のなかには、少数派も含まれているからである。

 正しいものが一つも無いというよりは、正しいものがいくつもある、というふうにも見ることができそうだ。何らかの歴史認識に価値を見いだすのであれば、それを正しいものと認めているからこそ主張することになる。正しくもないのにことさらに主張するとは見なしづらい。正しさによる精神的価値をもつわけだ。そこから、内と外のような線引きができあがる。

 内と外という線引きは、意味によるものである。この線引きは絶対的なものかというと、そうとも言い切れない。というのも、自己同一性(アイデンティティ)とは、絶対的なものではないとされるふしがある。自己同一性は、あくまでも相補的なものであるという説があるそうなのだ。こうした相補的な視点をもし欠くのであれば、ロマン的な虚偽につながってしまう。外との交通をまったくもたない内というのは原理的にありえない。

 あくまでも理想ではあるだろうが、少数派にいかに十分な配慮をすることができるのかが課題だろう。それは、自民族中心主義をできるだけ抑えて少なくしてゆくことにつながる。しかしそもそも、なんで自民族が中心になるのをあえて抑えたり少なくしたりしなければいけないのか。そうした疑問もわく。これにたいしては、排斥という暴力をできるだけふるわないですませるようになるのがのぞましいのがある。

 まわりと同化するようにうながす圧力は、空気を読むだとか、忖度だとかの、和による拘束である。その圧があまりに強すぎると問題だ。そうした同化の圧による画一化は、かえって平等を遠ざけてしまう。たんなる同質化(分身化)にすぎないからである。そこには平等が無いだけではなく、自由もまた無いだろう。

 自民族という名の固定点ないし準拠点を、しっかりとしたものとして築くのではなく、逆に壊してゆくようにする。いまの世の中の流れは、そのようではなくて、自民族を中心にもってきて、しっかりとした足場を築こうとする動きも目だつ。それはそれで、完全にまちがっていることだとは言えそうにない。もっとも、そうした足場や土台というのは、大きな物語(大きな言葉)であり、しばしばねつ造されてできあがるものではある。

 自由のみならず、友好や連帯も少なからず失われつつあり、他との敵対の空気がおきつつあるのも無視できないだろう。この敵対の空気は、市民社会の常態である。そこでは、質をないがしろにした、経済の量的な論理が幅をきかす。くわえて、自民族という名の固定点や準拠点の発想からきているところもある。こうした空気を少しでも変えてゆくためには、包摂からとりこぼされている、排斥されがちな少数者や弱者にもっとまともに目を向けることがいるのだろう。

割って入りかたの工夫

 ヘイトスピーチのデモにたいして、カウンターがおきる。その両者のあいだに、警察が割って入る。両者のあいだでぶつかり合いがおきて、もめごとになってはいけない。そのさい、警察は、ヘイトスピーチのデモをしている人たちではなくて、カウンターの人たちのほうに顔を向けて、一列になって止めに入る。

 ヘイトスピーチをしている人たちをもし火だとすると、それにたいしてカウンターをするのは、油を注ぐことになりかねない。たとえ水をかけようとする気持ちがあるのだとしても。だから、挑発になってはいけないとして、カウンターをしている人たちを警察はいさめる。しかしこれだと、カウンターをしている人たちの腹の中の気持ちがおさまらない。なぜ、まちがったことをしている人たちではなく、それを止めようとしている自分たちに待ったをかけるのか。逆ではないのか、ということだ。

 ふさわしい例えかどうかはわからないが、学校の教室で、授業中に隣の席の生徒からちょっかいを受けて、ちょっかいをしたほうではなく、されたほうが先生から(静かにしろ、などと)しかられてしまう、というのに似ているかな。泣きっ面に蜂のような。ただ、カウンターをする人たちは、直接にヘイトスピーチの対象になっているわけではないだろう。止めに入るという、よいことをしようとしているのに、あたかも悪いことをしようとしているように受けとられてしまう。理に合わない、という心境だろう。

 警察は、一列になって止めに入るさいに、カウンターの方にだけ顔を向けてしまうと、カウンターの人たちを心理的に威圧することになる。なので、一人はカウンターのほう、その隣はヘイトスピーチのほう、というふうにして、交互に反対側を向くようにすればよいのではないか。ちょっと変な光景かもしれないが、このようにすれば、カウンターの人たちの気分を害することも少ない。

蕎麦屋の入り口にある扉

 古いたたずまいの建て物のそば屋がある。玄関の入り口には、格子もようのついた引き戸のとびらがある。このとびらは、ふつう手で引いて開けるものであるけど、これが自動ドアになっている。それが意外性があるせいか、何となくありがたみがあるように受けとれる。

 たんに自動ドアなだけではそれほどありがたみがあるわけではない。珍しくはないせいだろう。透明のガラスでできた自動ドアではなくて、昔ながらの引き戸が自動で開く。風情が残されたまま現代の技術が生かされていると感じた。

国による開発

 北朝鮮をなんとかする。アメリカはそれをもくろんでいるらしい。放っておくわけにはゆかない。どんどんと過激になっていってしまうからである。北朝鮮は、核ミサイルを持とうとして、それをつくろうとしていると言われる。何とかしてそれに歯止めをかけないとならない。

 国が、何を開発するのに力を入れるかというのにちがいがある。ふつうの国であれば、たいていは経済の開発に向かう。しかし北朝鮮では、これが核の開発に向かってしまうのである。ほかの国でも、核を持っているところはあるわけだけど、それはあくまでも経済力をつけるのと並行するような形になっているのが大半なのだろう。

 たとえ経済の開発を主とするにしても、そこに問題がないわけではない。市場原理は自由な取り引きのためになくてはならないし、制度としてまちがってはいない。しかし、人々のあいだに格差を避けがたく生む。それの解決がされないままであれば、不平等が幅をきかす。平等なありかたとはほど遠いと言わざるをえない。

 経済がたとえ成長したり発展したりしても、その使い道にも問題がありそうだ。軍事に使うのもある程度は必要かもしれないが、それで安心が買えるとは必ずしも言えそうにない。ここは価値意識がからんでくるところだから、一概に決めつけるようなことを言ってはまずいこともたしかである。そのうえで、使い道の正しさといった点にも、修正を加えながら気を配ることがいりそうだ。

 経済における物(物質的富)や、防衛のための武器なんかをつくるのにおいては、それはひいては物象化をまねく。経済というのは数値によって動くものでもあるから、それは数量による計算的な思考によって成り立つ。いかに効率よくものごとを進めてゆけるかが重みをもつわけである。そこにおいては技術がものを言う。すると、理性が道具化して野蛮になってしまうという。こうした道具化による野蛮さが行きすぎるのを避け、どこかで止めることがいる。

 他者との意思疎通では、象徴である言葉が交わされ合うわけだけど、それはしばしば混乱が常となる。不正確なふうになる。これは、フランシス・ベーコンにおいて、市場の偶像(イドラ)と呼ばれるものだという。偶像をもてあそんでしまっていることになる。人々は、ふつうに意見や主張を言い合うわけだけど、それは商品語という形をとるとされる。人々があまねく商品語をしゃべるのは、一つの頽落であるとしてさしつかえない。資本主義という点でいえば、その強い魔力にすっぽりと染まってしまっている。あまり他人のことは言えないわけだけど、こうしたあり方にはまり込んでしまうのではなく、そこからなるべく脱するように努めることもたまにはいるだろう。

国連の費用対効果

 国際連合は、なぜ国どうしのもめごとを解決できないのか。これは、たんに解決ができないことをなじっているのと同時に、費用対効果の面もかかわっていそうだ。日本は国として国連にたいしてお金をそれなりに負担しているのにもかかわらず、それが日本の利益として具体的にはね返ってきているのかが定かではない。小言(苦言)さえ言われる始末だ。そこにたいする不満もあるかもしれない。

 国連へお金を払っているのだから、その利益の還流(リターン)がそれなりにあってしかるべきだ。この費用対効果の面は、そこまで意識はしないほうがよさそうだ。国際平和というのは、かなり複雑なものでもあるだろうから、単純に効果が上がっているかどうかを確かめるすべはない。ちょっと例えが不適切かもしれないが、神社やお寺におさい銭を支払うようなものではないか。(先進国であることへの)感謝のために捧げる、みたいなことである。国内では、格差などの問題を抱えていて、解決されていないのもあるわけだけど。

 国連の存在理由というか趣旨というのは、力づくで平和をなしとげることにあるのではないのだろう。できるだけ強制的な力を排除したかたちで、もめごとをおさめてゆく。そうはいっても、国と国どうしのぶつかり合いにはほとんど無力なところもありそうだ。しかし、あんがい、目につきづらい、地味でささやかなところに主として力を注いでいるとすれば、そこを積極的に評価することもできるだろう。病気でいえば、すでに発病してしまったら、あまり手のうちようがない。現代医学で治せる病気の数はあんがい少ない。それよりも、病という形になる前に、未然に防ぐことにも合理性があり、意味があると言えそうだ。防ぎきれてはいないにせよ。

 意思決定の過程なんかが、できるだけ皆が納得できるようになればよいのだろう。いま現にそういうあり方になっているのかというと、そうではないから、不満がおきてしまう。従うのが義務だといっても、それが冷たい義理にならざるをえない。うっぷんによる、心情の面が大きく前に出てきてしまう。これを改めるためには、温かい義理にできればよい。納得しつつ、喜んで参加して従えるようなかたちである。

選ばれる理由

 教育勅語には、現代にも通ずる価値観がある。防衛相の稲田朋美大臣はそのように語っているという。たしかに、言っていること自体は特に間違いではないのだろう。しかし、価値観というのは、人それぞれなところがある。それでも、最大公約数みたいなかたちで、何か否定できないような価値があるということなのだろうか。

 積極的に否定したり排除したりするのには、それ相応の理由がある。しかし、この理由というのは万人を説得するほどのものではない。だから、いったんは否定されたり排除されたものを再び持ち上げようとする動きが出てくる。

 よい部分があるのだから、頭ごなしに否定したり排除したりするのは間違いである。そこまではよいのだとしても、そこから先が納得できづらい。というのも、かりに利害が対立していないのであればよいけど、もし対立してしまうのであれば、対象としては決してふさわしくはないからである。いわくつきのものをあえてとり上げるよりも、当たりさわりのないもののほうが、公的なものとしてはよりふさわしい。

 いわくつきというのは、利害が対立してしまっていることによる。人によって、それを正の価値として見たり、また逆に負の価値として見たりしてしまう。こうなってしまうと、どちらが正しいのかというのが定まりづらい。それでもむりやりに押し切ってしまうこともできなくはないだろうが、そこまでする意義が見いだしづらいのもたしかだ。むりやりというよりももっと巧妙であり、すきをぬうようにして入りこませるようにしている。いやらしいやり方だと言ってしまえば、言いすぎになってしまうだろうか。

 現代にも通ずる価値観がある、というのだけでは、理由づけとして弱いのである。現代にも通ずる価値観があるものは、世にたくさんありふれているわけだから、そのなかから何か適当なのを選べばよい。それでも、これでなくてはならないのだとしてしまうようなこだわりがあるとすれば、そうした心理も分からなくはないけど、主観的な物神性を見いだしているわけだろう。

けがれと気の量

 なぜけがれと見なされてしまうのか。もともとそうだったのではなくて、ある時から急にけがれとなったとすると、気が変化したことになる。けがれというのは、気が枯れることを意味するのだという。気の量が減ってしまうことでけがれになる。もともと与えられていた気が、何かの理由ではく奪されると、けがれになる。量的に見ればそのように言えるだろう。社会関係における、一つのできごとである。

 気の量の移りゆきというのは、株価みたいなところもあるかな。株価は美人投票だとも言われる。美人だとみんなが言っているものが、(じっさいに美人であるかはともかくとして)多く買われる。これはハレ(晴れ)であるだろう。しかし何かのきっかけで、よからぬ情報なんかが流れると、それが人々の耳に入り、株が買われなくなる(売られる)。そうすると株価が下がってしまう。不美人であるとなるわけだ。

 気の量が多いとしても、それはもともと上げ底だったおそれがある。経済学でいわれる、ネットワーク外部性がはたらいていた。考えを共にする賛同者をつのってとり込む。つながり合うことで、お互いに益になる。好況のさいにはこれは背中を押してくれるわけだけど、不況になるとかえってマイナスにはたらく。仲間であることをやめる離脱者が増えてゆく。

 人間というのは、自分の行動を正しいものとして、あとから意味づけをする。それが合理化である。自我の防衛の機制(メカニズム)の一つとされる。それまでは美人だと見なしていたものを、あるきっかけから不美人であると見なす。それまでの美人だと見なしていたのは間違いだったわけだけど、これは無かったことにしてしまう。もとから不美人だったことにしてしまうわけである。こうすることによって、一貫性が保たれる。

 正の価値をもっていたものが、負の価値になってしまうのだと、180度変わったことになる。このようになってしまうと、認知に不協和が生じる。その不協和を解消するために、元から負の価値だったとしてしまう。最初からそのように見なしていたとする。これで認知の不協和が解消されるわけだ。

 正の価値をもっていたのが、あるときから負の価値であるとされることになると、それは両義的存在者となることを意味する。これは見かたによれば、暴力をこうむったことになるだろう。暴力または権力がふるわれることにより、ある状態から別のありようへと激変した。それは当人の意思によるものではない(当人がのぞんだものでないのであれば)。中心から周縁へと、位置価が変わることになる。

 もともとよいとされていたものが、悪いと見なされるようになるのは、そんなに珍しいことではないかもしれない。一つの例としては、たとえば岩波系(朝日系)があげられそうだ。関係者ではないからそんなにくわしくはないんだけど、戦前においては、岩波系は書籍の代名詞だったという。とりあえず本といえばそれは岩波系をさしていた。それくらいの権威とありがたみがあった。しかし今では、世間的な評価としては、岩波系(理論)と朝日系(現象)はともに、大きく価値下げられてしまっているきらいがいなめない。ただこれは、好みのちがいもあるし、質のとらえ方のちがいだから、何とも言えないところではあるが。

言わない人たち

 一つの国の国民は、全体として見ることができる。全体がまずあって、そこから部分が成り立つ。そうであると、全体がまず優先され、部分はそれにならうような形になる。こうしたあり方であると、わりと分かりやすいとらえ方ができる。それほどややこしくはない。

 一つの国において、全体から単一に見るのではない見かたもできる。大づかみに言うと、表層と深層というふうに分けることができる。表層というのは饒舌であり、深層というのは沈黙による。饒舌というのはやかましいありようをしている。しかし、沈黙のほうはそうしたありようをしていない。饒舌が主張することに、沈黙は必ずしも同意しているわけではないが、かといってそれに表立って反論するのでもない。

 表層の饒舌さだけで全体が成り立っているのかというと、そういうことではないだろう。また、表層で主張されていることが中心にあるのかというと、そうとも言い切れそうにない。むしろ、深層の沈黙のほうが中心的である可能性もある。これは、ちょっと分かりづらいというか、あべこべなふうになってしまっている。有と無であれば、有ではなく無のほうにより大きな意味があるということである。

 饒舌を上部構造であるとすると、沈黙は下部構造のようなものだろうか。ゲシュタルト心理学でいわれる、図と地にもあてはまりそうだ。図と地は反転させることができる。図を地としても見ることができ、その逆も可能である。

 主張する側としない側とがあるとして、前者が成り立つためには、後者がいなくてはならない。後者は、前者が成り立つための必要条件の一つだろう。黙っていてくれる側がいるから、何かを主張できる側でいられるのである。かりに、みんながそれぞれ言いたいことを言っているのだとすれば、それは取りとめもないような、分散したものになってしまう。そうではなく、何かまとまった一つの主張となるためには、雑音(騒音)が意図して排除されている。

 まとまった形の一つの主張というのは、整っている。しかしそれは、錯覚であるおそれも否めない。つくりごとだ。主張と主張のぶつかり合いは、錯覚どうしの対立であるおそれがある。土台がぐらついている。そのぐらつきというのは、主張しない側である沈黙があることによっている。そうしたものを隠すことによって、あたかもしっかりとしたものとなる。

 おしゃべりが好きな人もいれば、おとなしい人もいる。おとなしいといっても、いざとなればしゃべる人もいれば、そうではなくどこまでも黙っている人もいるかもしれない。そうした人の内心をうかがい知ることはできづらい。本音を知ることは難しい。必要がないから語らないのではなく、どうせ言っても無駄だからなのかもしれない。火が大きいところに、ちょこっと水をかけてもあまり意味がないという。一粒の砂のような意見があっても、たくさんの砂の中にあれば無いにひとしい。ちょっと悲観になってしまうが、そうした面もある。

一コマ漫画での政治のあつかい

 日本のお笑いでは、政治がとり上げられづらい。欧米だと、政治がお笑いの題材として使われるものだという。もっと日本でも、欧米のようにしてお笑いで政治がとり上げられるようになればよい。そもそも、なんで日本では、お笑いで政治がとり上げづらいのだろう。そこには色々な理由があるのかもしれない。

 新聞の一コマ漫画では、日本でも政治がお笑いみたいなふうにして、題材として使われている。この一コマ漫画だと、あまり目をつけられづらいのだろうか。それとも、絵の内容自体がそれなりにおもしろいから、笑って許されるということなのかな。理と気でいうと、まあ漫画だから、ということで、理ではなく気の面が大きくはたらく。

 漫画では、大別すると、コミック(物語)とナンセンス、という違いがあるみたい。コミックだとあるていどの長さによって展開する、筋(ストーリー)をもつものである。いっぽうナンセンスではごく短く完結するものだという。この区分においては、一コマ漫画はナンセンスにあたりそうだ。

 ふつう政治というと、激しく意見が対立したり、深刻なふうになってしまいがちである。重いものである。理の空間だ。それを軽くあつかえるのが一コマ漫画なのかもしれない。意味が軽くなるぶんだけ、ちょっと息が抜けるようになる。そうしたことがやりやすい形式であり媒体だというのはありそうである。ほかのものだと、どうしても意味が軽くなりづらいため、重さが保たれてしまう。だからお笑いにできづらいのだろう。

 一コマ漫画にかぎらず、ほかにも似たようなものとしては、川柳なんかが挙げられそうだ。新聞のなかにある、川柳が載せてあるコーナーがあり、そこでは少しだけ政治に言及しているものがある。または、ラジオ番組なんかで、一つのコーナーとして川柳が扱われていて、その中で政治がとり上げられているのもある。ここでは、ナンセンスまたはノンセンスとして、(すべての人が共感するのではないにせよ)受け手への共感によって、楽しめる形で昇華されている。

 一コマ漫画であっても、禁忌を明らさまにおかす攻撃的な風刺なんかだとまずい。これだとおもいっきり角が立ってしまう。できるだけ、やんわりしたふうにして、ちくりと刺すくらいがちょうどよいあんばいなのだろう。どちらにもとれるようにしておくのが風刺のコツなのだという。すごく大きな価値をもつとされているものが、ほんとうはそうでもないとして、価値を下げられる。そこに落差が生じる。緊張と緩和がおきるので、こっけいにかんじられるというあんばいだ。力んでいたのがやや脱力する。素人なので、もしかしたら間違っているかもしれないけど。