蕎麦屋の入り口にある扉

 古いたたずまいの建て物のそば屋がある。玄関の入り口には、格子もようのついた引き戸のとびらがある。このとびらは、ふつう手で引いて開けるものであるけど、これが自動ドアになっている。それが意外性があるせいか、何となくありがたみがあるように受けとれる。

 たんに自動ドアなだけではそれほどありがたみがあるわけではない。珍しくはないせいだろう。透明のガラスでできた自動ドアではなくて、昔ながらの引き戸が自動で開く。風情が残されたまま現代の技術が生かされていると感じた。

国による開発

 北朝鮮をなんとかする。アメリカはそれをもくろんでいるらしい。放っておくわけにはゆかない。どんどんと過激になっていってしまうからである。北朝鮮は、核ミサイルを持とうとして、それをつくろうとしていると言われる。何とかしてそれに歯止めをかけないとならない。

 国が、何を開発するのに力を入れるかというのにちがいがある。ふつうの国であれば、たいていは経済の開発に向かう。しかし北朝鮮では、これが核の開発に向かってしまうのである。ほかの国でも、核を持っているところはあるわけだけど、それはあくまでも経済力をつけるのと並行するような形になっているのが大半なのだろう。

 たとえ経済の開発を主とするにしても、そこに問題がないわけではない。市場原理は自由な取り引きのためになくてはならないし、制度としてまちがってはいない。しかし、人々のあいだに格差を避けがたく生む。それの解決がされないままであれば、不平等が幅をきかす。平等なありかたとはほど遠いと言わざるをえない。

 経済がたとえ成長したり発展したりしても、その使い道にも問題がありそうだ。軍事に使うのもある程度は必要かもしれないが、それで安心が買えるとは必ずしも言えそうにない。ここは価値意識がからんでくるところだから、一概に決めつけるようなことを言ってはまずいこともたしかである。そのうえで、使い道の正しさといった点にも、修正を加えながら気を配ることがいりそうだ。

 経済における物(物質的富)や、防衛のための武器なんかをつくるのにおいては、それはひいては物象化をまねく。経済というのは数値によって動くものでもあるから、それは数量による計算的な思考によって成り立つ。いかに効率よくものごとを進めてゆけるかが重みをもつわけである。そこにおいては技術がものを言う。すると、理性が道具化して野蛮になってしまうという。こうした道具化による野蛮さが行きすぎるのを避け、どこかで止めることがいる。

 他者との意思疎通では、象徴である言葉が交わされ合うわけだけど、それはしばしば混乱が常となる。不正確なふうになる。これは、フランシス・ベーコンにおいて、市場の偶像(イドラ)と呼ばれるものだという。偶像をもてあそんでしまっていることになる。人々は、ふつうに意見や主張を言い合うわけだけど、それは商品語という形をとるとされる。人々があまねく商品語をしゃべるのは、一つの頽落であるとしてさしつかえない。資本主義という点でいえば、その強い魔力にすっぽりと染まってしまっている。あまり他人のことは言えないわけだけど、こうしたあり方にはまり込んでしまうのではなく、そこからなるべく脱するように努めることもたまにはいるだろう。

国連の費用対効果

 国際連合は、なぜ国どうしのもめごとを解決できないのか。これは、たんに解決ができないことをなじっているのと同時に、費用対効果の面もかかわっていそうだ。日本は国として国連にたいしてお金をそれなりに負担しているのにもかかわらず、それが日本の利益として具体的にはね返ってきているのかが定かではない。小言(苦言)さえ言われる始末だ。そこにたいする不満もあるかもしれない。

 国連へお金を払っているのだから、その利益の還流(リターン)がそれなりにあってしかるべきだ。この費用対効果の面は、そこまで意識はしないほうがよさそうだ。国際平和というのは、かなり複雑なものでもあるだろうから、単純に効果が上がっているかどうかを確かめるすべはない。ちょっと例えが不適切かもしれないが、神社やお寺におさい銭を支払うようなものではないか。(先進国であることへの)感謝のために捧げる、みたいなことである。国内では、格差などの問題を抱えていて、解決されていないのもあるわけだけど。

 国連の存在理由というか趣旨というのは、力づくで平和をなしとげることにあるのではないのだろう。できるだけ強制的な力を排除したかたちで、もめごとをおさめてゆく。そうはいっても、国と国どうしのぶつかり合いにはほとんど無力なところもありそうだ。しかし、あんがい、目につきづらい、地味でささやかなところに主として力を注いでいるとすれば、そこを積極的に評価することもできるだろう。病気でいえば、すでに発病してしまったら、あまり手のうちようがない。現代医学で治せる病気の数はあんがい少ない。それよりも、病という形になる前に、未然に防ぐことにも合理性があり、意味があると言えそうだ。防ぎきれてはいないにせよ。

 意思決定の過程なんかが、できるだけ皆が納得できるようになればよいのだろう。いま現にそういうあり方になっているのかというと、そうではないから、不満がおきてしまう。従うのが義務だといっても、それが冷たい義理にならざるをえない。うっぷんによる、心情の面が大きく前に出てきてしまう。これを改めるためには、温かい義理にできればよい。納得しつつ、喜んで参加して従えるようなかたちである。

選ばれる理由

 教育勅語には、現代にも通ずる価値観がある。防衛相の稲田朋美大臣はそのように語っているという。たしかに、言っていること自体は特に間違いではないのだろう。しかし、価値観というのは、人それぞれなところがある。それでも、最大公約数みたいなかたちで、何か否定できないような価値があるということなのだろうか。

 積極的に否定したり排除したりするのには、それ相応の理由がある。しかし、この理由というのは万人を説得するほどのものではない。だから、いったんは否定されたり排除されたものを再び持ち上げようとする動きが出てくる。

 よい部分があるのだから、頭ごなしに否定したり排除したりするのは間違いである。そこまではよいのだとしても、そこから先が納得できづらい。というのも、かりに利害が対立していないのであればよいけど、もし対立してしまうのであれば、対象としては決してふさわしくはないからである。いわくつきのものをあえてとり上げるよりも、当たりさわりのないもののほうが、公的なものとしてはよりふさわしい。

 いわくつきというのは、利害が対立してしまっていることによる。人によって、それを正の価値として見たり、また逆に負の価値として見たりしてしまう。こうなってしまうと、どちらが正しいのかというのが定まりづらい。それでもむりやりに押し切ってしまうこともできなくはないだろうが、そこまでする意義が見いだしづらいのもたしかだ。むりやりというよりももっと巧妙であり、すきをぬうようにして入りこませるようにしている。いやらしいやり方だと言ってしまえば、言いすぎになってしまうだろうか。

 現代にも通ずる価値観がある、というのだけでは、理由づけとして弱いのである。現代にも通ずる価値観があるものは、世にたくさんありふれているわけだから、そのなかから何か適当なのを選べばよい。それでも、これでなくてはならないのだとしてしまうようなこだわりがあるとすれば、そうした心理も分からなくはないけど、主観的な物神性を見いだしているわけだろう。

けがれと気の量

 なぜけがれと見なされてしまうのか。もともとそうだったのではなくて、ある時から急にけがれとなったとすると、気が変化したことになる。けがれというのは、気が枯れることを意味するのだという。気の量が減ってしまうことでけがれになる。もともと与えられていた気が、何かの理由ではく奪されると、けがれになる。量的に見ればそのように言えるだろう。社会関係における、一つのできごとである。

 気の量の移りゆきというのは、株価みたいなところもあるかな。株価は美人投票だとも言われる。美人だとみんなが言っているものが、(じっさいに美人であるかはともかくとして)多く買われる。これはハレ(晴れ)であるだろう。しかし何かのきっかけで、よからぬ情報なんかが流れると、それが人々の耳に入り、株が買われなくなる(売られる)。そうすると株価が下がってしまう。不美人であるとなるわけだ。

 気の量が多いとしても、それはもともと上げ底だったおそれがある。経済学でいわれる、ネットワーク外部性がはたらいていた。考えを共にする賛同者をつのってとり込む。つながり合うことで、お互いに益になる。好況のさいにはこれは背中を押してくれるわけだけど、不況になるとかえってマイナスにはたらく。仲間であることをやめる離脱者が増えてゆく。

 人間というのは、自分の行動を正しいものとして、あとから意味づけをする。それが合理化である。自我の防衛の機制(メカニズム)の一つとされる。それまでは美人だと見なしていたものを、あるきっかけから不美人であると見なす。それまでの美人だと見なしていたのは間違いだったわけだけど、これは無かったことにしてしまう。もとから不美人だったことにしてしまうわけである。こうすることによって、一貫性が保たれる。

 正の価値をもっていたものが、負の価値になってしまうのだと、180度変わったことになる。このようになってしまうと、認知に不協和が生じる。その不協和を解消するために、元から負の価値だったとしてしまう。最初からそのように見なしていたとする。これで認知の不協和が解消されるわけだ。

 正の価値をもっていたのが、あるときから負の価値であるとされることになると、それは両義的存在者となることを意味する。これは見かたによれば、暴力をこうむったことになるだろう。暴力または権力がふるわれることにより、ある状態から別のありようへと激変した。それは当人の意思によるものではない(当人がのぞんだものでないのであれば)。中心から周縁へと、位置価が変わることになる。

 もともとよいとされていたものが、悪いと見なされるようになるのは、そんなに珍しいことではないかもしれない。一つの例としては、たとえば岩波系(朝日系)があげられそうだ。関係者ではないからそんなにくわしくはないんだけど、戦前においては、岩波系は書籍の代名詞だったという。とりあえず本といえばそれは岩波系をさしていた。それくらいの権威とありがたみがあった。しかし今では、世間的な評価としては、岩波系(理論)と朝日系(現象)はともに、大きく価値下げられてしまっているきらいがいなめない。ただこれは、好みのちがいもあるし、質のとらえ方のちがいだから、何とも言えないところではあるが。

言わない人たち

 一つの国の国民は、全体として見ることができる。全体がまずあって、そこから部分が成り立つ。そうであると、全体がまず優先され、部分はそれにならうような形になる。こうしたあり方であると、わりと分かりやすいとらえ方ができる。それほどややこしくはない。

 一つの国において、全体から単一に見るのではない見かたもできる。大づかみに言うと、表層と深層というふうに分けることができる。表層というのは饒舌であり、深層というのは沈黙による。饒舌というのはやかましいありようをしている。しかし、沈黙のほうはそうしたありようをしていない。饒舌が主張することに、沈黙は必ずしも同意しているわけではないが、かといってそれに表立って反論するのでもない。

 表層の饒舌さだけで全体が成り立っているのかというと、そういうことではないだろう。また、表層で主張されていることが中心にあるのかというと、そうとも言い切れそうにない。むしろ、深層の沈黙のほうが中心的である可能性もある。これは、ちょっと分かりづらいというか、あべこべなふうになってしまっている。有と無であれば、有ではなく無のほうにより大きな意味があるということである。

 饒舌を上部構造であるとすると、沈黙は下部構造のようなものだろうか。ゲシュタルト心理学でいわれる、図と地にもあてはまりそうだ。図と地は反転させることができる。図を地としても見ることができ、その逆も可能である。

 主張する側としない側とがあるとして、前者が成り立つためには、後者がいなくてはならない。後者は、前者が成り立つための必要条件の一つだろう。黙っていてくれる側がいるから、何かを主張できる側でいられるのである。かりに、みんながそれぞれ言いたいことを言っているのだとすれば、それは取りとめもないような、分散したものになってしまう。そうではなく、何かまとまった一つの主張となるためには、雑音(騒音)が意図して排除されている。

 まとまった形の一つの主張というのは、整っている。しかしそれは、錯覚であるおそれも否めない。つくりごとだ。主張と主張のぶつかり合いは、錯覚どうしの対立であるおそれがある。土台がぐらついている。そのぐらつきというのは、主張しない側である沈黙があることによっている。そうしたものを隠すことによって、あたかもしっかりとしたものとなる。

 おしゃべりが好きな人もいれば、おとなしい人もいる。おとなしいといっても、いざとなればしゃべる人もいれば、そうではなくどこまでも黙っている人もいるかもしれない。そうした人の内心をうかがい知ることはできづらい。本音を知ることは難しい。必要がないから語らないのではなく、どうせ言っても無駄だからなのかもしれない。火が大きいところに、ちょこっと水をかけてもあまり意味がないという。一粒の砂のような意見があっても、たくさんの砂の中にあれば無いにひとしい。ちょっと悲観になってしまうが、そうした面もある。

一コマ漫画での政治のあつかい

 日本のお笑いでは、政治がとり上げられづらい。欧米だと、政治がお笑いの題材として使われるものだという。もっと日本でも、欧米のようにしてお笑いで政治がとり上げられるようになればよい。そもそも、なんで日本では、お笑いで政治がとり上げづらいのだろう。そこには色々な理由があるのかもしれない。

 新聞の一コマ漫画では、日本でも政治がお笑いみたいなふうにして、題材として使われている。この一コマ漫画だと、あまり目をつけられづらいのだろうか。それとも、絵の内容自体がそれなりにおもしろいから、笑って許されるということなのかな。理と気でいうと、まあ漫画だから、ということで、理ではなく気の面が大きくはたらく。

 漫画では、大別すると、コミック(物語)とナンセンス、という違いがあるみたい。コミックだとあるていどの長さによって展開する、筋(ストーリー)をもつものである。いっぽうナンセンスではごく短く完結するものだという。この区分においては、一コマ漫画はナンセンスにあたりそうだ。

 ふつう政治というと、激しく意見が対立したり、深刻なふうになってしまいがちである。重いものである。理の空間だ。それを軽くあつかえるのが一コマ漫画なのかもしれない。意味が軽くなるぶんだけ、ちょっと息が抜けるようになる。そうしたことがやりやすい形式であり媒体だというのはありそうである。ほかのものだと、どうしても意味が軽くなりづらいため、重さが保たれてしまう。だからお笑いにできづらいのだろう。

 一コマ漫画にかぎらず、ほかにも似たようなものとしては、川柳なんかが挙げられそうだ。新聞のなかにある、川柳が載せてあるコーナーがあり、そこでは少しだけ政治に言及しているものがある。または、ラジオ番組なんかで、一つのコーナーとして川柳が扱われていて、その中で政治がとり上げられているのもある。ここでは、ナンセンスまたはノンセンスとして、(すべての人が共感するのではないにせよ)受け手への共感によって、楽しめる形で昇華されている。

 一コマ漫画であっても、禁忌を明らさまにおかす攻撃的な風刺なんかだとまずい。これだとおもいっきり角が立ってしまう。できるだけ、やんわりしたふうにして、ちくりと刺すくらいがちょうどよいあんばいなのだろう。どちらにもとれるようにしておくのが風刺のコツなのだという。すごく大きな価値をもつとされているものが、ほんとうはそうでもないとして、価値を下げられる。そこに落差が生じる。緊張と緩和がおきるので、こっけいにかんじられるというあんばいだ。力んでいたのがやや脱力する。素人なので、もしかしたら間違っているかもしれないけど。

学校で教えるべきこと

 学校で何を子どもに教えるべきか。この、べきかというのは、それぞれのひと(大人)の価値意識みたいなのが関わってくるから、なかなか一般的な合意を得るのがむずかしいところである。そういったところはあるけど、思うに、今の時代にはウェブがあるのが無視できない。ウェブで調べてしまえば、色んな意見に接することができる。たとえうわべでよいことを言っていたとしても、その裏面を知ることもたやすい。情報過密社会のなかで子どもは生きている。

 ウェブにはいろんな情報や意見が転がっているから、調べれば調べるほどに分からなくなってくることもある。だから必ずしも有益とは言い切れないかもしれない。くわえて、子どもは大人とはちがい、情報を色々調べるのにも、あれは駄目とかこれは駄目だとして、制限されているのかもしれない。そこまで自由ではないおそれがある。それを無理やりにかいくぐる楽しみもあるわけだけど。

 学校というのは一つのイデオロギー装置である。そこでは、閉じたありようがとられる。国家や政治に都合がよい従順な主体をいかにつくるかといったことを目的としている。国家や政治からの呼びかけにたいして、いかに素直に応じるのかが、評価の分かれ目だ。その呼びかけをかたくなにこばむ者は、よい評価はのぞみづらい。

 学校では、教養というのを一つの柱にしたらどうかという気がする。教養というとちょっと古くさい響きがすることもたしかであり、あまり人気がないものでもあるだろう。ここで言うそれは、一人ひとりのもっている癖を、さらに補強してしまうのではなく、うまく補正できるようなものをさす。そうした手引きに使えるのが教養だという。つまり、一人一人がついついはまり込んでしまいやすいやっかいな癖というのを、直してくれるようなものである。

 よい知識というは、教養であり、それはわれわれ一人一人が知らずうちにはまり込んでしまっている悪い癖に気づかせてくれる。ふだん気がつかない、自分の負の面に目を向けさせてくれる。こうして、癖が知らないうちに補強されてしまうのを防ぎ止められる。もっとも、そのようにうまくゆくとは限らないのもあるわけだけど。一つの柔軟体操のようなふうにして、癖を直してゆくことが、きっかけとしてはたまにはあってもよい。

 子どもたちには、何らかの単一の癖をつけさせるのではなく、それをいつでも解きやすくするようなことを説けばよいのではないか。そうした手立てをいろいろな形で持てるようにする。そうすれば、批判的思考(クリティカル・シンキング)もできやすい。距離をとりやすくなる。

 精神分析学では、無意識は(自分からではなく)他人からのほうが見えやすいという。自分で自分の無意識を見るのはできづらい。そういうふうだから、自分の癖というのは自分では直しづらいところがある。偉そうなことを言ってしまっているように響くかもしれないが、これは決して他人ごとの話ではない。そのように自戒することができる。

 より効率的な主体をいかに多く生産するのかをもってよしとするのではない。そうではなくて、癖を(補強するのではなく)補正するというのは、効率性の文脈にのらないことだという気がする。経済性が低いありようだ。しかし、そうした経済性が低くて、労力のロスが多いようなこともたまにはやらないと、質(クオリア)というのがないがしろになりかねない。質というのは一見すると非経済的だけど、それはあくまでも、狭い経済の回路には回収されないというのにすぎないわけだ。

 身体とはちがい、精神にこびりついた汚れみたいなのは、なかなか認識しづらい。であるから、その汚れが付着したままで、さらに積もっていってしまう。そうした流れを止めて、たまには清浄にするような機会がもてればよい。こうすれば、見えかたが新しくなる。これは、自我を肥大化(過大化)するのではなく、それをあえて弱めて過少化することにもつながりそうだ。

ヘイトスピーチへの対抗

 憎悪表現を町なかで叫ぶ。そのさい、それを防ぎ止めようとして、対抗する人たちが出てくる。この対抗する人たちが出てくることは、頼もしいものでもある。憎悪表現がやられているのを、ただ見て見ぬふりをしてしまうよりかは、じっさいに止めに入る心意気は立派である。

 なにか憎悪表現が叫ばれていて、それを止めに入ろうとするのは、人間の生のありようとも関わっている。人間の生というのは、何かに抗ったり拒んだりするような運動のなかで、その実感を確かめられるという面があるという。だから、憎悪表現が行われているのにたいして、そこに対抗(反抗)する人たちが出てくるのは、主体的意思の結果であると同時に、自然でもある。

 憎悪表現に対抗するのはよいことだが、そのさい、相手に向かって、死ね、という言葉を使ってしまうのは、どうなのだろう。これだと、憎悪表現を行っている人たちに対して、憎悪表現をしてしまっていることになる。同じ穴のむじなになってしまう。言葉のチョイスとして、死ねという言葉は避けたほうがよい。そのように言えるが、いわば緊急措置的なことで、そういう言葉を発してしまうとすると、絶対に使うなとはいえないかもしれない。渦中にいないから、冷静にいられるにすぎないわけだ。

 力への意志として、ますます相手側に勢いがついて行く。そのようなふうであれば、おそれを抱いたとしてもしかたがない。猿とはちがい、直立歩行をおこなう人間は、過去と現在と未来を(あるていどは)見通すことができる。それによって、たとえば予期不安なんかを強くいだく。そうした負の面もある。不安とは客観的なものというよりは、主観による心内の現象である。

 予期不安を将来にもってしまうのは、それが健全な範囲のうちであればとくに問題はないかもしれない。しかしそれと同時に、参照点をどこに置くかの点がやっかいだ。はじめの参照点を、すごく安全なところに置くこともできるし、また逆にすごく危険なところにも置ける。それは認知のちがいであるわけだ。視点を安全なところにおくのは、しばしばお花畑的な発想と見なされる。いっぽうでそれは、大人なありようともいえる。
 安全ではなく、逆に危険なところに視点をおいてしまうと、議論がしばしば幼稚になってしまう。危険さをやたらに煽りすぎるのは、認知の歪みのおそれがあるし、よくはたらくとはかぎらない。もっとも、そうした危機意識があったほうがよいことも少なくはないわけだけど。危機の意識なくしては、現実への認識をはたらかせることができづらい。

 憎悪表現にたいしては、その場で自浄作用をはたらかせて、防ぎ止めることも立派である。それと同時に、相手の主張にたいして、強い反論なり弱い反論なりで、話し合いで返してゆくという手もある。完ぺきに非のうちどころのない主張というのはないわけだから、その不完全なところをいかにこちらが適切にアタックできるかが問われる。相手がもし資本主義(帝国主義)的な加速度でくるのなら、こちらもそれにのっかるのではなく、あえて遅速度で対抗するのもありだろう。その場での勝ち負けはともかく、長い目で見たら、(忙しいのではなく)より暇な時間をもつほうが勝ちやすい。そのような面もある。

 固定したり、閉じたイメージをもってしまう。そうではなくて、できるだけ開いたようにすることもいるのかもしれない。ただそれは、言うほど易しいことではないのかもしれないのだけど。何か否定的なものがあるとして、それをけがれとして見るか、不浄(物)として見るかのちがいがある。そうしたことも言えるのだという。けがれというといっけん悪い印象だが、そうではなく、これは変化する否定性であるとされる。創造性や革新性をもつ。両義的存在者である。これをうまく生かせれば、閉塞を打ち破り、高次の学習ができるようになるかもしれない。

表向きの見せかけ

 言われたことや、記されたことを、そのままには受けとらない。どうしても裏を探ってしまう。表向きの見かけは嘘にすぎず、その裏にほんとうの真相が隠されている。こうした見かたがある。言われてみれば、たしかにこうした見かたをとってしまっているきらいがあるなと思いいたる。それと同時に、中途半端でもある。探究心が足りないせいだろう。

 なにか勇ましいことを言っているのを見かけると、それをそのままに受けとることはどうもできづらい。虚勢を張っているのではないかというふうにいぶかしむ。強がるのは、弱さのうら返しなのではないか、との勘ぐりだ。そうして、じっさいにどこかでふいにぽろりと生の心情(弱音など)なんかをちらとこぼしているのを見かけると、裏づけが得られたとして、妙に安心するようなこともある。そんなに強いわけはないよな、として、自分(が弱い人間であること)に引きつけてしまうのである。

 表向きで言われていることを、そのままには受けとりづらいのは、言語行為論が関わっているせいだろう。これによると、事実(コンスタティブ)と執行(パフォーマティブ)はどちらかに決めがたく、どちらとも言えてしまうようなところがあるらしい。決定不能さをもつ。執行というのは、ある発言の中で(in)、またはそれによって(by)、何かを成すことである。

 言われたことや記されたことが、もともとこうした 2面性や 2重性をもつ。それにくわえて、受けとるほうが、さらに解釈をはたらかせる。なので、ものごとが複雑になってしまうのだろう。たんに事実を言っているのでもなく、かといって反事実であるだけなのでもない、その中間みたいなのもおうおうにしてありえる。単一体(シンプル・ビーイング)ではないわけだ。こうなると、関係的な視点に立つことになるだろう。とはいえ、確固としては決めがたいとはいっても、それを押して単一的に決めてしまおうという衝動もある。