機会と結果の平等

 平等というのは、機会平等のことである。結果については、格差があって当然だ。それが現実というものである。こうした意見があったのを見かけて、ちょっと首を傾げてしまった。たしかに、現実の秩序というのは、あるていどの差別が前提になっている。しかし、その差別はなんとか受け入れられる範囲内でないとならない。

 経済の格差なんかが深刻になっているいま、この問題を放置したままでよいとはとても言えそうにない。たとえ社会のなかで富が身近にあったとしても、そこにじっさいにアクセスできる人がごく限られてしまっている。そのもどかしさから豊かではない側のうっぷんが溜まっていってしまう。

 経済学者のフランク・ナイトは、資本主義はもはや公正なゲームとは言えるものではないと見なしていたという。資本主義において用いられているルールが、すべての人にとってふさわしいものではなくなっている。もともと資本主義では、資本の側が利潤を多く得るしかけになっている。それが自己目的化するわけだ。それにくわえて、偶然による運の要素が大きく左右してしまう。幸運であればよいが、もし不運であれば浮かばれない。

 経済学者のマルクスは、資本主義が必然的に革命をもたらすことを解明したのだという。資本主義においては、賃労働者は資本の側に組み入れられて資本化する。しかし、すべての労働者がそうして組み入れられるわけではない。なかには排除されてしまう人も出てくる。これが無産者によるプロレタリア化である。このプロレタリア化が進行すると、資本主義における亀裂が深刻になり、なんらかの変革を呼びこむ。そうした流れなのだという。

 機会平等だけあればそれでこと足りるとしてしまうのは、今ある格差をそのまま放置することにつながりかねない面がある。欺まんにならざるをえない。機会の平等はあくまでも形式的なものであり、それとは別に結果の平等もふまえることがいる。そうした実質的な平等についてを見ることが、わりと性急な課題になっている。世代のあいだや、また同世代内においても、不平等感が広がりすぎないようにする手だてが求められている。

 格差や不平等感が緊張であるとすると、それをどこかで解放しないといけないのかもしれない。ふだんは市場原理による等価性によってやりとりがされているわけだけど、それだけであると富の過剰な蓄積なんかが進んでゆく。この過剰さを処理するために、蕩尽することがいるのだという。あまり賛同は得られそうにはない(むしろひんしゅくを買いそうではある)が、こうした贈与による蕩尽というのが、ひいては国防および平和につながってくる。目には目を、では行かないありかたである。

人口を保つ

 人口を保つには、自然増と社会増の 2つがあるそうだ。このうち日本では、これまでの少子化対策の失敗もあり、自然増は無理である。とするとあとは社会増しかない。社会学者の上野千鶴子氏はインタビューでこのように述べていた。世界全体の排外主義の波をかぶってしまったために、日本では移民の導入は難しくなっているのだという。

 この上野氏の発言が、物議をかもしている。はじめから移民の受け入れをあきらめてしまってどうするのだ、というわけである。草の根的に受け入れに努力している人もいるので、そうした陰ながらの尽力に水をさしてしまいかねない。また、そもそも今の日本には、移民の人たちがすでに入ってきていて、労働力として貢献している現状もある。そこを無視するのはいかがなものかとも言えるそうだ。

 上野氏の発言をよく見てみると、移民の日本への受け入れについて難色を示すうえで、そこに大量のという言葉がついているのも見逃せない。とすると、少数の移民の受け入れには反対ではないということなのだろう。門戸を広く開けて、大量に受け入れることにたいして疑問を呈している。

 議論の展開として、まず前提となっているのが、日本は多文化共生主義をうまく行えない点がある。そして大量の移民を受け入れることもできづらい。ゆえに、結論として、みんなで貧しくなりつつ、富の分かち合いをしよう、という流れになっている。このさいの、みんなで貧しくなろうというのは、脱成長による定常経済みたいなのを指しているのかもしれない。

 上野氏の指摘は、移民の受け入れについての悲観論だろう。そして皮肉も少しだけ入っている。これは、楽観論や希望論にたいして冷や水を浴びせる形になってしまっている。しかし、この悲観論も、それはそれで将来になりうる可能性の一つではあるのではないか。ヘイトスピーチなんかがしばしば飛び交ういまの現状をふまえると、内向きで閉じたまま全体が縮んでゆくおそれもありえないことではなさそうだ。

 ヘイトスピーチということでいうと、異なものにたいする恐怖というのはけっして小さなものではないような気がする。その恐怖を克服するためには、けっこうな労力を要するのではないか。やせ我慢が一時的にできたとしても、あとで反動がきてしまうようだと、けっきょくは心を抑圧していただけにすぎない。そして、異なもののような、なにか対象をともなった恐怖だけではなく、ばく然とした内なる不安というものについても対処してゆかないとならない。

 いまは、自由主義(リベラリズム)がわりと叩かれがちで、保守的な動きが強くなってきている。保守による共同体主義では、多文化的なありかたをとると、極端には分離主義(アパルトヘイト)のような形に行き着いてしまうのだという。これはよくて共存にすぎず、多文化による共生のありかたとはとても言えない。その点をふまえても、共存をさらに超えた、多文化による共生とは、言うほど易しくはないのではないか。

 共存を寄生として排斥してしまうような言動も、ほうっておくとすぐにおきてしまう。こうした差別をどう乗り越えるのかが課題になりそうだ。日本では、私が抑圧されがちで、公が幅を利かせやすい。公の論理なんかが大手を振ってまかり通るところが目立つ。まだ、大戦の前や戦中における、領域としての公(滅私奉公)のありかたが残存しているせいだろう。一人ひとりの生を膨らませるというよりかは、それを削ってしまうような向きがある。

 政治は有権者による主権にもとづくものであり、その決定単位である主権についてをふまえると、血統の問題が生じてしまうという。血統とは科学的にいえば虚構かもしれないが、正統性を見いだすうえで、しつようにからんできてしまう要素ではないか。そうした負の面をふりきって、思いきって、開かれたありようにかじを切るのものぞましいとは思うんだけど、必ずしもスムーズには行かないかもしれない。

真実の真偽

 2016年を象徴する言葉としてポスト・トゥルース(post-truth)があったそうだ。これは真実を軽視することをさすものだという。それで思ったんだけど、なぜ一足とびに真実を軽視してしまうのだろうか、という点が少しだけ疑問である。真実とは、いわば神のみぞ知るようなものではないのだろうか。人間が知りうるものは、せいぜい事実の集積にすぎない。事実すらも、すべてを知ることはできない。もっている資源に限界があるためである。

 真実の軽視というのは、真実の重視のうら返しなのかもしれない。これは一神教のあり方からくるものでもあるのだろうか。日本だと、一神教というよりはどちらかというと多神教の面が強いところがある。しかし真実をみなが軽視しているかといえばそうとも言い切れない。真実一路なんていう言葉もある。あんまりよい意味で使われる言葉ではなく、どちらかというと皮肉のようにして用いられるものではありそうだ。

 大手報道機関が、きちんと真実を伝えないのは、けしからんことである。そうした意見も投げかけることができる。こうした意見において、そもそも真実というのが、なにか直接的な現実のありようを指すのだとしたら、そこには無理があることもたしかだ。報道機関とは媒介であり、鏡であるのではない。現実が加工されるのはある程度はやむをえない。これは程度問題であり、許容量の観点をふまえるのがいる。どのみち、報道機関というのは、多かれ少なかれイデオロギー装置であり、それを脱することはできないのである。経験というのも、生の形でそのまま出すわけにはゆかず、なにかでき合いの形式の中に落としこまざるをえない。

 事実というのはいくつもあるものと見なせる。まずそこから出発すればよいのかなという気がする。といっても、2つの事実のあいだで 180度異なった見解になるとすると、ぶつかり合ってしまう。そうしたさいに、どちらを優先するべきなのかは前もっては言えない。無難なことをいうのであれば、たとえ真っ向から対立してしまう事実があったとしても、どちらかを優先させるというよりは、両論併記のような形をとるのがのぞましいだろう。それくらいのゆとりは欲しいものだ。

 人間の脳は、一般論でいうと、一貫性を好む。支離滅裂なものをきらう。なので、一貫したものについての信念の志向性をもちやすい。そうした傾向は、創造性をもたらすいっぽうで、認知的バイアスによる認知の歪みをももたらす。両面価値的だといえるだろう。なにかひとつの見かたや物語にこだわってしまうようだと、呪物視(フェティシズム)におちいることになる。そうしたありかたが強くなると、確証となり、閉じてしまうようになる。

 真実一路ではなくて、真実多路といったありかたもよいのかもしれない。多方向に開かれているありようである。開かれているとはいっても、そうしたありかたは不真面目であるとして、何かよこしまであると見なされかねない。しかし、ものごとは一面だけではなく多面であるのをふまえることもいる。だから、いきなり真実から演繹してしまうのではなく、複数ある事実から帰納してゆくのがよいのではないか。そうしてたがいに反論を許すかたちによって、弁証法的に運動する自由が大きいほうがよさそうだ。意味というのは結果ではなくその過程にあるともいえるそうである。

国の相性のよさ

 アメリカの大統領と日本の首相が、アメリカで会談をしている。一部の識者が言っていたように、アメリカのドナルド・トランプ大統領と、日本の安倍晋三首相は、相性がいいようである。じっさい、トランプ氏はツイッターのツイートで、日本の首相にたいする好意的な心情をもらしている。これは両国の関係において悪いことではないのだろう。

 よい印象が形づくられたことはけっこうなことだ。そうしたムードに水をさしてしまうようではあるが、あえて頂門の一針として言わせてもらうと、出会いの最初に明らかに親切にしてくる人は、逆に要注意でもある。なにか裏に魂胆をもっていることが少なくないからだ。そのため、あとになって態度を 180度ひるがえして、冷たく打って出てくることもある。

 最初はぜんぜん興味がなく、よい印象をもっていなかった相手が、何かのきっかけで途中から見えかたが変わり、よい人物として受け入れられるようになる。それによってお互いの仲がよくなるなんていうこともある。こうした展開のほうが、けっこう仲が長続きすることが多いのではないかという気がする。

 国どうしの関係に、一般の人との関係を当てはめるのは、的はずれなふうになってしまうところがあるかもしれない。そのうえで、あらためて見ると、国の代表どうしに相性があるというのもちょっと不思議なことである。人間くさいという気がする。国の代表というのは、その人物の言動を、国のものであると見なすということで、機関であるとされる。これは擬制(ロール・プレイ)である。憲法によって規定されているのだという。

 こうした代表のありかたというのは、何となく腑に落ちるような、腑に落ちないようなところがある。いまの時代、そうした代表に意見なんかが集約されるというよりは、むしろ拡散したり散逸したりするほうが大きいのもあるかもしれない。なので、代表とはいっても、求心性があるとはかぎらず、かえってその集団の一部分(または表面)しかくみ取っていないおそれがある。そうはいっても、代表というもの自体を頭から否定するのもまずい。そこは肯定主義におちいらないようにして、うまく批判してゆくことがいる。

現実主義をはばむもの

 現実主義が足りない。もっと現実の生のありように沿ってものごとを見ないとならない。リアリズムをよしとしているわけだ。このさいのリアリズムにおけるリアルとは、理ある(理が有る)でもあるのかなという気がした。たんなる言葉遊びにすぎないのはあるんだけど、ふつうリアリズムというのは、われこそはその体現者であるといったふうに使われる。自分こそがリアリストであるとして、自分に理を付与しているのだ。

 これはちょうどオリエンタリズムと似た構造になっていそうである。オリエンタリズムでも、オリエンタルという客体がいて、オリエンタリストという主体がいるそうだ。かんたんにいうと、客体であるオリエンタルは野蛮であり、いっぽう主体であるオリエンタリストは文明的な筆記者である。こうした価値づけのありかたが、リアリズムにもまた当てはまるところがある。

 欧米なんかだと、現実主義と神秘主義がきちんと分けられているという。しかし日本だとこの両者が何となくあいまいにされたままになっている。そもそも、日本ではきちんとした現実主義はなかなか成り立ちづらいところがありそうだ。なぜそうなのかというと、ひとつには甘えの構造が大きいせいではないだろうか。この情による甘えの構造を、どうしても断ち切りがたいのである。なので、理あるではなく、理足らずみたいになりやすい。だからそこを省みることもあったらよさそうだ。

 現実主義をとりづらいのには、いさぎよさをよしとしてしまうところも要因としてはたらいていそうである。われわれにはねばり強さとか、根気強さといった点がどうしても足りない。もちろん、なかにはそうした点をしっかりともっている人もいるだろう。しかし全体のなかではごく少数派であることはまちがいがない。

 いいものはいいだとか、悪いものは悪いだとかして、ありきたりな紋切り型の空話におちいってしまうことが圧倒的に多い。勧善懲悪の分かりやすい図式は必ずしも悪いものではないが、そこで停止してしまうと見かたが深くはなりづらい。善悪なんかでも、もうちょっと細かく見て、部分に分けてみたりすることもあったらよいといえる。そうすれば敵対しているもののなかにも共通点が見つけ出せる。

 哲学者のハイデガーは、経験世界を 4つに分類しているという。道具的世界と客体的世界と共同世界と自己世界である。これらが互いに影響し合っているのだそうだ。道具的世界は、身近な環境世界をさす。客体的世界は、学問などの抽象的な世界である。共同世界は、人との関わりなどの社会的な関係による。

 この 4つの世界のつり合いみたいなのが大事になってくるのだろう。たとえば、客体的世界だけを重点的に知ったところで、それで世界を総体的に知ったことにはなりづらい。学問的な抽象の世界によって、現実が演繹されるわけでは必ずしもないだろう。学問ではしばしば要素還元の手法がとられるが、それは具体的なものごとのありようをそのまま映し出すものとはいいがたい。なるべく 4つの世界のそれぞれがいびつにならないようにしていったほうが、より現実をうまく見られるようになることがのぞめる。

 集団をとりまとめるためには、あるていどの理想というのはいるのだという気がする。そうした理想をまったく排して、ただ現実だけに根ざすのではかえって難しそうだ。理想をまったく排して現実だけをふまえるというのは、逆に非現実的になりかねない。

 現実とはしばしば身もふたもないものである。不条理でもある。なので、不確実ではあれ、希望みたいなのがないと生きてゆきづらい。そこのかねあいは、本来性と現実性のバランスの問題なのだろう。本来性は、ともすると現実性からかけ離れてしまうおそれがあるが、そうして分裂するのだけではなく、おたがいに相互関連的でもある。その相互関連的な面もまた無視はできない。

自業自得の線引き

 自業自得の人と、そうでない人を線引きする。これが政治の仕事の一つなのだという。次期衆議院議員選挙に、日本維新の会から出馬をめざす、長谷川豊氏はそのように発言したそうだ。この発言については、そもそも自業自得かを線引きするのは政治の仕事ではなさそうだなという気がする。というのも、そうしてしまうと憲法違反にあたるからである。

 政治家というのは、あくまでも憲法を守ったうえで活動をすることがいる。なので、それを無視するのはまずい。たとえ自業自得なのが不道徳であると見なすにせよ、そこから法のもとにおいて人を不平等にあつかってよい理由にはならないだろう。

 すべての人は生存する権利を、生まれながらの自然権としてもつ。しかもそれはたんに生きているだけというのではなく、自分の生をより充実させて、より自由になってゆくように、ほんらいは国も率先して手助けしなければならない。

 憲法による立憲主義をふまえれば、長谷川氏のいうような自業自得かどうかによる線引きというのは、政治の役割でも何でもないことが導けるのではないだろうか。政治に正義や道徳をもちこむのは、自由主義にあまり合わない。今の日本をふくめた近代の憲法は、こうした自由主義がとられたものでもあるという。

 政治において線引きするのはちょっとまずいとは思うけど、共同体主義なんかでいう、共通善といわれるのをふまえるのはあってもよいのかもしれない。なるべく不摂生をしないように生きるのが美徳なのだというような。しかしこれも押しつけになってしまうとまずい。健康というのは、価値判断やモラルがかかわってくるものなので、あまりそうした点に強くこだわりすぎないようにすることもいるだろう。

 できるだけ精神論ぬきで見るのもよいのではないかという気がする。心は脳にあるなんていうのが脳科学の知見からも見いだせるのだから、そうした切り口を活用しない手はない。人の脳がおちいりやすいぜい弱性のようなものをもつのだとしたら、そこに変にあらがってみても、うまく行きづらい。

 今の医療は高度化して細分化してしまっている。人体を部分にして見ているために、全体からの視点が欠けているのは事実だろう。そこを補うために、有機的で包括的な治療のとりくみがあるのがのぞましい。医療が進歩して発展してきているとはいえ、そのいっぽうで治せない病気の数もまた増えているという逆説があるともいわれる。現代医療に見放された気の毒な患者の数は決して少なくない。

 有機的で包括的ということでいえば、たんにのぞましくないものを、外科手術的に切除(排除)すればそれですむという話ではないのではないか。そこまで話は単純にはなっていなさそうだ。社会のなかには矛盾というのがあってしかるべきだし、それをなくしてしまうようだと、社会そのものが成り立たなくなってしまうおそれもある。純で透明な共同体のありかたは、ロマン主義的な虚偽でもありえる。物質的な幸福だけを追い求めてきた、これまでの社会のかたよったあり方の報いの面もあるとすれば、そこを省みることもしないとならない。

目をつけられやすい視覚の報道媒体

 ラジオは、報道機関としてけっこうがんばっているなという気がする。それに比べて、テレビや新聞というのはちょっと頼りないところがある。(一部例外は除いて)厳しくいうと、全体として、権力に迎合しているような感じだ。しかしこれは、それだけテレビや新聞が目をつけられやすいのがあるのを無視できない。あと、はじめから寄せられている期待感が大きいのもある。ラジオというのはその点ではすき間であるニッチのような部分があるから、やりやすいところがありそうだ。

 こういう差がどこから来ているのかは、いろいろ理由がありそうである。もともと、視覚と聴覚のちがいがまずあるそうなのだ。視覚というのは暴力的で、聴覚は非暴力的であるという。たしかに言われてみればそういう気がする。どうしても視覚というのは刺激にかたよるし、場としてとげとげしくなってしまうのはいなめない。

 ウェブなんかでも、時代を追って現在に近づくにつれて、ゆとりがなくなり、なにか殺伐としてきてしまっているようなふしもある。うるおいが足りない気がする。砂漠のようなあんばいだ。これはたんに過去を美化してそこに憧憬をもっているがための部分もなくはない。そうではあるのだけど、2ちゃんねる用語で、今は死語かもしれないが、マターリすることが(ウェブ内で)全般的になくなっているようだ。これは世界情勢の不透明さとも関係しているのかもしれない。まだラジオなんかは、少しではあるが、マターリしている部分があるように見うけられる。

 テレビにおいても、ひと昔前(そうとう前にさかのぼるのだけど)のお笑い番組なんかのほうが、暴力的なものがそこまで多くはなかったのではないだろうか。わりと平和的だったという。それが時代を下って今に近づくにつれて、暴力的な言動が多くなってきてしまっている。過度のいじりなんかである。視聴率の細分化による競争の激化のせいもあるのかな。これははっきり言ってよくない風潮であることは否定できない。しかし今さらそんなことを言っても遅すぎることもたしかだ。

 ラジオのもっているような、聴覚による非暴力的な面を、今よりもさらにうまく活用することができないものなのだろうか。しかしあまり無条件に美化しすぎるのも間違いのもとだから、そこに注意することもいる。聴覚が全面的に非暴力というのではなく、たとえば大声だとか扇動だとか暴言だとかの暴力的な面もあるにはあるだろう。

 われわれは知らずうちに、町中の騒音なんかのせいで、とくに都市部においては、聴覚をふくめた暴力にたいする不感症にさせられている。経済優先であるために、車やバイクの出す音や、お店などでの商業活動にともなって生ずる、非人間的なうるさい音がはびこっているのもたしかだろう。大げさに言えば、ただ生きているだけで、神経がすり減ってしまうことになる。

 そうした負の面もあるが、視覚の情報はわりあいデジタル化されやすいのに対して、聴覚の情報はアナログが残りやすいのが大きいのかもしれない。聴覚の情報だと、質感のようなものが意味をもちやすい。あと、話の間(ま)とかの比重も大きそうだ。受け手においても、聴くというのは、送り手とのあいだに信頼(ラポール)みたいなのが築かれやすいところがありそうだ。そのために、電話でのオレオレ詐欺なんかがおきてしまいもする。

 何でも、聴覚というのは、第二次性質までしか到達できないそうである。嗅覚もこれに含まれる。その先にある視覚は第一次性質という。これでいうと、聴覚というのは、第一次性質までは到達できないために、制限されている。その制限されていることがかえってよいのかもしれない。人間のもつ合理性の限界(限定性)のようなものに多少は合致する。しかし第一次性質である視覚によるものだと、どうしても合理性が万能であるとして錯覚におちいりやすい。拍車がかかる。そうした傾向がありそうだ。

性的いやがらせがおきる

 警察官が性的な不法行為をしてしまうのはなぜなんだろう。異性の同僚にたいしてやってしまう。そういうニュースをしばしば見かけるのである。これは、世の中の流れとは逆行していそうだ。今の時代、ふつうの会社とか行政組織では、男女のまちがいがおきないようにとても神経質な配慮がとられているという。同じ部屋に男女だけでいるのはだめで、もしそうしないといけないときは、部屋の扉を全開にしておく、などをすることがいる。いらぬ誤解を受けないようにするのが何よりだ。

 こうした配慮は少しやりすぎな気もしなくもないが、しかしそうとはいえないところもある。というのも、ひと昔前の会社なんかでの性的嫌がらせは、目にあまるものがあったと言われている。すべての人がやっていたわけではないだろうけど、ちょっとくらいならかまわないといったまちがった慢心が(男性側に)もたれていたことは事実である。

 警察官の組織というのは、まだ昔の空気の名ごりが残ってしまっているのではないかという気がする。今の時代では、ほかの会社や行政組織では、性的トラブルに対して過剰なくらいの配慮に神経を使っているところが少なくない。男女平等の世の中においては、そうした神経をできるだけ使ってゆかないと成り立たない。しかし警察の組織では、まわりの空気の変化にややとり残されてしまっているのではないか。

 警察は、人を取り締まるという権力をもっているために、それが腐敗してしまっているのが影響していそうだ。身内に甘いというのはちょっといただけない。ただ、あまり頭ごなしに責めるのもよくないかもしれない。現場で日ごろ職務にあたっている警察官には、ストレスや心労なんかが溜まる。そうしたものが、正常な判断を少し狂わせ、気をゆるめさせてしまうのに多少は関わっているのかもしれない。そうしたところのケアも欠かせないだろう。なるべく風通しのよい気風に変わってほしいものである。

睨みによる統治

 ドナルド・トランプ大統領は、にらみをきかせる。睥睨をする。そうしたふうにして威圧する言動が多少目立つ。これは、民俗学でいわれる御霊信仰からも見ることができるのではないかという気がした。アメリカの威光というのがあって、それが通用しているところに対しては、にらみが有効にはたらいている。たとえば日本の安倍晋三首相や、トヨタ自動車は、できるだけトランプ大統領にとり入るようなふうにすばやく動こうとしている。

 そうしたとり入る動きというのが、いいか悪いかは賛否が分かれるかもしれない。いずれにせよアメリカは、世界でも有数の経済規模をもつ大国なのだから、そこにとり入ることによって、めぐりめぐって日本の国益にもつながることになる。少なくともそういう計算はなりたつ。うまく行けば両方ともに益となるウィン・ウィンの関係になれば、お互いに丸く収まる。うまく行かなかったとしても、とり入っておいてとりあえず損はない。そういう見込みだろう。

 アメリカの国の威光というのが、かつてより落ちてきてしまっているのが、事をたやすく運ばせない点の一つになっていそうである。威光が落ちているぶん、(御霊信仰による)生き霊としてのにらみもそこまで強くはたらきづらい。むしろ、国内外にいらぬ火種をまき散らしてしまっていることにすらなってしまっている。一部からの強い反発をまねいているわけだ。これだけ複雑化した時代に、一人のひとが、大きな共同体をとりまとめて統合するのは、無理やり現実をねじ曲げることなどがいる。とてもではないが正攻法のまともなやり方を用いてできることではない。

 これが日本だと、アメリカよりはずっとにらみがききやすい。安倍首相は、日本人がおおむね権威に対して弱いところを、うまく活用しているふしがある。権威者からひとにらみをきかせられると、たちどころにまわりが忖度をはたらかせる。あまり他人のことばかり責められはしないのはたしかなんだけど、これは日本人が空気を読むことに長けていることから来ているものだろう。そのぶんだけ、空気による和の拘束をたやすく被ってしまう面があることはいなめない。関係性が重んじられるために、それが優位を占めることになる。

 安倍首相とトランプ大統領は、おたがいに波長が合う、というふうにもいわれている。これは、おたがいが生き霊どうしだからというのもあるかな。にらみをきかせる戦法をとっている同士ということである。日本のなかでは親方日の丸の心性をうまく体現しているわけだけど、対アメリカにおいては、アメリカが(日本にとっての)親方になる、というふうなところがありそうだ。

 にらまれるのは、標的にされることでもある。まずは、因縁をつけられて、標的に選ばれてしまったことが不幸といえばいえそうだ。力関係の要素も無視はできないものだから、そこに変に抗ってみても、かえって事態がこじれてしまうおそれがある。そこは、世渡りの難しさと同じところがあるのだろうか。ぶつかり合うでもなく、かといって完全に従えられるでもなく、そのどちらでもないあいまいなところへうまく逃げるみたいなことができればさいわいだ。

料理店の肉まん

 中華料理屋の肉まんを食べた。この店では、持ち帰りのみでは販売せず、店内で料理を注文して食べたうえでないと、肉まんを買って持ち帰ることができない。なので、店では料理を注文して、おみやげとして購入した。町中にあるふつうの料理店だから、そこまで値段は高くはなかった。

 コンビニエンスストアの肉まんなんかだと、具では肉が主となって全面に出てくる。しかしこのお店のでは、具のなかに入っている椎茸のだしがよくきいていて、主役であるはずの肉よりもむしろ口のなかで印象に残る感じである。具のなかの竹の子の歯ざわりもよい。調和があっておいしかった。