元首相の死に国立大学が義務として弔いの意を形として示すことは必要なことなのかどうか

 亡くなった中曽根康弘元首相に弔いの意を形として示す。与党である自由民主党の政権は、国立大学にたいしてそれを強いているのだという。中曽根氏に弔いの意を示すことを国立大学に強いるのはふさわしいことなのだろうか。

 大学は学校であり、国家のイデオロギー装置の一つだが、なぜ中曽根氏に弔いの意を示すことを国立大学だけに求めるのかが定かとは言えそうにない。是非については置いておけるとすると、国立大学に求めるのであれば、税金が投入されているあらゆる学校にそれを求めるのであってもおかしくはない。

 近代国家の中性国家の原則からすると、国家はできるだけ個人の内面に介入しないほうがよい。国家は個人の内面が関わるようなことにたいして介入することをできるかぎりつつしむのがふさわしいことだろう。日本の国家は、明治の時代に国家がつくられはじめたころから個人の内面に介入してきやすい。すきがありさえすれば日本の国家は個人の内面に何かと介入しようとしてくるから、うかうかと油断やすきを持てない。抜け目がない。

 そもそも、亡くなられた中曽根康弘元首相とはいったいどういった人物にあたるのだと見なせるのだろうか。中曽根氏は首相になったのだとはいえ一人の政治家だったのにすぎない。政治家とは国民の代理または代表にすぎない。そこで気をつけなければならないのは、政治家は国民とぴったりと一致しているとは言えないことだ。そこには無視することができないずれがある。

 憲法でとられている原則である国民主権主義から見られるとすると、国民の一般をよしとするのならともかくとして、国民の代理や代表のことをよしとするのはいかがなものだろうか。国民の代理や代表については、よしとするのではなくて、むしろきびしく批判として見て行くべきである。政治家については批判をもってして見て行くことがふさわしい。

 政治家にたいして批判の目を向けずに甘やかすと、かえって政治家のためにならないかもしれない。甘く見なすよりもきびしく見なしたほうが政治家のためになるとすると、きびしく見なしつつ、関心を向けることがよいだろう。それでなくてももともと政治家は自分が票を得ることに主の関心をもつものだし、量に重きを置きがちだ。それによって質をとり落とすことになり、たやすく理性が退廃して道具化しやすい。政治家ではなくて短期の利益に走る政治屋に転落しやすい。

 たんなる国民の代理や代表であるのにすぎないのにもかかわらず、その代理や代表のことをよしとするようなことをするのは、その正当性がいったいどこにあるのかがよくわからない。原理原則からいって正当性がいったいどこにあるのかがわからないようなことを自民党の政権はやろうとしているように映る。

 民主主義は民が主となるものであり、政治家が主となるものだとは言えそうにない。政治家のことを主とするのはお上を主とすることであり、お上をあがめたてまつる権威主義の意識のあらわれだ。民主主義によるのであれば政治家ではなくて民つまり主権者のことをよしとしなければならない。

 もしも自民党の政権が言っていることややっていることに正当性があるとするのであれば、どのような原理原則に照らしてそれがあるのかを示してもらいたい。ただ暗黙としてこうせよとするのではなく、こういうことだから(why so)こうするのだ(so what)といった形で明示化するとわかりやすい。

 自民党の政権が言っていることややっていることには、こういうことだからの部分が欠けていることが多い。それを示すことをしないことが多く手を抜いている。手を抜いていることが多いために議論の水準が低いかまたはそもそも議論にすらなっていないことが目だつ。それのみならず、改めてみると言っていることややっていることの確からしさが足りていないことが多い。それをさも正しいことであるかのようによそおっていることが多く、ごまかしの虚偽意識になっている。

 修辞学の議論の型(topos、topica)の比較からの議論では、なおさら論証と言われるものがある。何々であればなおさら(より強い理由によって a fortiori)何々だとするものだ。それを持ち出せるとすると、国民の代理や代表をよしとするのであれば、なおさらのことじかに国民の一般のことをよしとするようにするべきだろう。国民の一人ひとりが亡くなったとすれば、そのことにたいして税金をかけたりあらゆる国家の機関が弔いの意を示すようにしたりするべきではないだろうか。じっさいにそれをやるのは難しいことだから、じっさいにまちがいなくそれをやったほうがよいとは言えないだろうけど。

 参照文献 『ええ、政治ですが、それが何か? 自分のアタマで考える政治学入門』岡田憲治(けんじ) 『現代思想を読む事典』今村仁司編 『議論入門 負けないための五つの技術』香西秀信現代思想キイ・ワード辞典』鷲田小彌太(わしだこやた)編 『議論のレッスン』福澤一吉(かずよし)