首相になったことがないのなら、首相を批判するべきではないと言われていた―見なしや表象としての首相

 首相にたいして批判を行なう。それをした芸能人にたいして、自分がじっさいに首相になってから首相に批判をするべきだということが言われていた。自分が首相になったことがないのであれば、首相を批判するなという。

 自分が首相になったことがなければ、首相のことを批判してはいけないのだろうか。そのことについては、ある人が首相になったことがあるかどうかと、首相にたいして適した批判が行なえるかどうかとは、関係がないことなのがある。

 首相にたいしては権力チェックをすることがいるから、それが許容されることがいる。権力チェックが行なわれないか、それが少ないと、政治の時の権力が悪いことをやりたい放題になってしまう。

 首相と国民とは同一なものではなくて、そこにずれがおきざるをえない。首相が国民の全体の代表だとされるのは、そう見なされているからにすぎず、じっさいにほんとうに国民の全体の代表だとは言いがたいだろう。首相は国民の部分の代表なのが現実である。

 まったくもってぴたりと少しのずれもなく首相が国民の全体の意思を代表しているとはいえず、国民の全体の意思を首相が完全に代表しているのだとしたて上げたり基礎づけたりすることはできづらい。国民の中の意思を十分にすくい上げられていないのがあり、とり落としているところがあり、それをすくい上げるのに欠かせないのが国の議会の内や外にいる反対勢力(オポジション)だ。

 少しのずれもないくらいにぴたりと国民の全体の意思を首相が代表しているというのなら、それは嘘になる。そこにずれや差異がおきてくることになり、ずれや差異がおきてくることから、首相と国民とのあいだにみぞがおきることになり、首相が国民にたいして少なからぬ嘘を言うことがおきてくる。それがおきてくることになるのは、首相が国民の表象だからだ。表象というのは、置き換えられた代理のものをさす。そのものであるのではない。

 首相のことを主にするのではなくて、国民のことを主にできるのがあり、国民を主にするのが民主主義に当たり、国民主権主義に当たるだろう。国民を主にするようにして、国民の一人ひとりから批判を投げかけることが行なわれるのがあったほうが、国民の一人ひとりの自己統治や自己実現にかなう。

 国民の一人ひとりの自立した自己統治や自己実現をなすことのさまたげになるのが、首相が嘘を平気で言うことや、現実から離れた虚偽意識が大手を振ってまかり通ることだ。首相についてをきびしく批判して権力チェックをしないで、甘く見なしてしまっているために、政治の時の権力の嘘が平気で言われたり、虚偽意識が大手を振って通用してしまっていたりするのがある。

 参照文献 『現代思想を読む事典』今村仁司編 『民主主義という不思議な仕組み』佐々木毅(たけし) 『小学校社会科の教科書で、政治の基礎知識をいっきに身につける』佐藤優 井戸まさえ 『「野党」論 何のためにあるのか』吉田徹 『まっとう勝負!』橋下徹