腰痛と、体と心―体から来ているのか、それとも心から来ているのか

 いすに座るのがこわい。なぜこわいのかというと、腰痛を持っているからである。いすに座ると腰が痛くなる。そういう内容が記されているのが、作家の夏樹静子氏による『椅子がこわい 私の腰痛放浪記』だという。

 この本を読んだことはないのだけど、何でも、腰痛の原因をさぐって行くうちに、それが肉体から来るものというよりは、精神から来るものだということがわかったそうである。心因性のものだったという。

 腰痛では、体から来るのと、心から来るのがあることを示している。体から来ていれば、心もちだけでは何とかならないだろう。心から来ていれば、体だけでは何とかならず、心もちを何とかすることがいる。

 体と心のどちらの切り口をとるのが適しているのだろうか。そのことについて、医師の金岡恒治(かねおかこうじ)氏がこう説明しているのを見かけた。それによると、腰痛は骨と脳から来ているのだという。

 骨つまり体と、脳つまり心の両方から来ているということだ。骨の痛みをかりに二だとすると、それが脳を経ることで拡張されることがある。骨の二の痛みが四になり、六になり、というふうに、脳を経ることで何倍にもなることがあるという。その総合として腰痛の痛みがおきることになる。

 腰痛の痛みに脳が関わっているというのは、少なからず興味ぶかいことだと受けとれる。たんなる骨の痛みだけではなくて、脳がその痛みを大きくしてしまう。

 高い山に登ることにいどむ登山家の中には、山を登り切る途中で不幸にも力つきることがある。過酷なきびしい山に登るからそういうことがおきる。そのさいに、途中で力つきてしまった登山家は、すべての持ちものを使い果たすのではなくて、持ちものをあまらせていることが少なくないそうだ。それが示すのは、気力のほうが先につきてしまったのを読みとれるそうである。自分が持てるものをすべて使いつくす前に、気力のほうが先につきてしまった。

 気の持ちようが変わると、体のあり方まで変わることがあるという。高い山の頂上まで登り切ると、それまで体に疲れが溜まっていたのが、抜けて行くように感じられることがあるのだという。これは、山の頂上まで来たことで、気の持ちようが変わったことによって、体によい作用がもたらされたことをあらわす。

 腰痛では、体か心のどちらか一方ではなくて、その二つが相互に作用し合うことによって腰痛の痛みがおきるのだと想像することができる。心だけによるのであれば、心もちを変えるだけで何とかなるかもしれないが、そうとはかぎらないから、体と心の両方の切り口からとり組んでいったほうが有効かもしれない。

 創造性の MRS 理論でいうと、動機づけ(モチベーション)のもち方や、資源(リソース)つまり知識や情報などや、技術(スキル)の持ち方によって、問題を何とかして行くやり方は変わってくる。とらえ方や行動が変わってくることがある。

 精神療法の論理療法でいうと、腰痛における体(骨)から来る痛みというのは物理によるものだ。その物理のものにたいして、精神(脳)が意味づけをすることによって、痛みが何倍にも大きくなってしまうことがある。たんなる物理のことだけではなくて、そこに精神による意味づけが行なわれるのがあって、それによってよくはたらいたり悪くはたらいたりすることがあるわけだ。

 参照文献 『一生痛まない強い腰をつくる』金岡恒治 『「無酸素」社会を生き抜く』小西浩文 『創造力をみがくヒント』伊藤進 『自己変革の心理学 論理療法入門』伊藤順康(まさやす)