批判をするなら、対案や代案を示せ、ということと、問題の所在を明らかにすること(原因にたいして手を打つ)

 年金について、批判を投げかける。それにたいして首相は、投げかけられた批判を受けとめないようなことを言っている。

 これまでに、年金について、いまのとはちがう案を示した人はいない。経済の成長をすることが、年金をよくする唯一の道だ。首相はそう言う。

 年金についてのことに限らず、いまの首相による政権について、批判を投げかけると、それならどうすればよいのか、というふうに言われるのがある。じゃあどうしろというのだ、ということだ。批判をするのなら、対案や代案を示せ、というのである。

 たとえば、よい案というのは、必ずしも野党が示さなくてもよいのがある。野党が示さなくてもよいというのは、野党にはそこまでの力がないのがあるからだ。もっている力の制約がある。なので、野党が自力でやらなくてもよくて、ほかのところにどんどん頼ればよい。ほかのところに目を向ければ、色々な案(私案や試案など)が示されているのがある。中心だけではなくて、目だちづらい辺境にまで目を向けることが必要だ。

 対案や代案というのは、手だてということだが、これは、単体でということよりも、どういう問題かということによってくる。まずは、問題を発見することが何よりもいることなのだ。そのためには開かれた中での話し合いがいる。

 問題を見つけて、それがどういうものかを定めて、問題の所在を明らかにする。そのことが肝心だ。それができれば、そこから自然とどういう手だてをとるのがふさわしいのかが分かりやすくなる。原因が何かということが分かれば、それにたいして有効な手を打つことができる。

 対案や代案となる手だてを示すことよりも、むしろ問題の所在や原因(または複数の要因)を明らかにすることのほうが値うちがある。それが明らかになれば、どういう手だてをとるのがよいのかが分かりやすくなるからだ。

 問題を見つけていって、話し合いをするようにして、どういう手だて(変換操作)がふさわしいのかを探って行く。これを逆から言うと、問題を見つけず、隠ぺいして、話し合いをせず、唯一の手だてにしがみつくことしかできていないのが、いまの首相による政権のあり方ではないだろうか。案のよし悪しというよりも、問題が見つけられていないのだ。開かれた話し合いができていない、という問題がある。

 参照文献 『ぎりぎり合格への論文マニュアル』山内志朗(やまうちしろう) 『市民の政治学 討議デモクラシーとは何か』篠原一(しのはらはじめ) 『考える技術』大前研一 『創造力をみがくヒント』伊藤進