歴史学や歴史学者がどうとかと言うのは、そこに問題があるのではなく、政治(政治家)を含めて日本では過去の(負の)歴史をないがしろにしたりいい加減にしたりしがちなのが大きいのではないか

 歴史学憲法学と考古学は、極左による。歴史学極左の分野で、歴史学者たちは極左集団だ。憲法学者や考古学者たちもまたそうだ。テレビ番組の出演者はそう言っていた。

 歴史学極左の分野で、歴史学者たちは極左集団だから、歴史学者が町を歩いていたらうしろから蹴りを入れといてもよいくらいだ。テレビ番組の出演者はそうも言っている。

 歴史学者が町を歩いていたら、うしろから蹴りを入れてもよいくらいだというのは、いったいどういうことだろうか。かりにうしろから蹴りを入れたからといっていったいどうなるというのだろうか。うしろから蹴りを入れられるいわれは何なのかは定かではない。してよいことでもない。

 感情的になって、うしろから蹴りを入れたところで、まともな話し合いができるものではない。歴史学極左だとか、歴史学者たちは極左集団だとかというのは、その極左という言い方が歴史的な虚偽意識(イデオロギー)によるものだ。そうした虚偽意識の言い方を用いていては、まともな話し合いは成り立ちづらい。

 はっきりとした根拠を示さずに、歴史学憲法学や考古学を、極左の集団だというふうにしたて上げることは、適したことだとは言えそうにない。これはたんに、はっきりとした根拠もなく、歴史学などについてを極左だと言うことで、そう言っている人の主観の見なし方が反映しているのにすぎない。

 極左などという言い方の歴史の虚偽意識を用いたり、陰謀理論を用いたりすると、感情的になりやすくなることで、まともな落ちついた話し合いをすることが難しくなる。はじめにもっている認知のゆがみが大きいと、偏った見なし方におちいる。

 極左はまちがいで、保守は正しいのだというのは、歴史の虚偽意識による見なし方であるし、認知のゆがみが大きいものだ。適した性格(定義)づけだとは言いがたい。多かれ少なかれ認知のゆがみがはたらいてしまうのは、極左であれ保守であれみな同じことだ。主観や意図が少なからず入りこむ。

 全体を極左の集団だというふうに一くくりにしてしたて上げないようにして、同一なものとして基礎づけしないようにしたい。すぐにこうだと決めつけないようにして、(主観によるのではない)科学のゆとりをもち、十分に時間や労力をかけて見て行くことがいる。

 大きく一くくりにして見るのではなくて、要素分解して細かく見て行くほうが正確さにつながることが少なくないから、適した大きさに分けて見ないと、ずさんな見かたになりがちだ。

 参照文献 『歴史という教養』片山杜秀現代思想を読む事典』今村仁司編 『逆説の法則』西成活裕 『思考の「型」を身につけよう 人生の最適解を導くヒント』飯田泰之 『議論入門 負けないための五つの技術』香西秀信 『思考のレッスン』丸谷才一