日本の政権がやることに内外から批判が投げかけられるとして、その人が反日や売国に当たるとは言いがたい(批判が当たっているのなら受けとめるのがよいし、当たっていないのなら感情的になる必要はない)

 新しく日本の沖縄県につくられるアメリカの軍事基地の建設に反対する。反対の声をあげたのは、イギリスの音楽家であるクイーンのブライアン・メイ氏である。ブライアン・メイ氏は反対の声をあげたために、一部の人からは反日売国という非難が投げかけられている。

 ブライアン・メイ氏が反対の声をあげたことを受けて、これまではクイーンのことが好きだったが、もうレット・イット・ビーの曲は聴かない、というツイートがツイッターでは言われていた。レット・イット・ビーはクイーンではなくビートルズの曲なので、うっかりしたまちがいをしたのだろうか。

 ブライアン・メイ氏は国家主義をあまりよしとはせず、国際主義者だということだ。同じ偉大な曲ではあるが、レット・イット・ビーをかりに聴かないとしても、イマジンは聴いたらどうだろうか。クイーンの曲ではないものの、イマジンの歌詞は、ブライアン・メイ氏がとっている国際主義に通じるところがあるものだ。

 なぜブライアン・メイ氏は、一部の人から、反日売国と非難されることになるのだろうか。それは日本では公共の美徳が重んじられていないせいだろう。人々が政治や社会のことに関心をもって声をあげるという公共の美徳が積極的によしとされていない。国家の公がとられていて、それが幅を利かせてしまっている。

 日本の国がおし進めているものごとであっても、それにたいして内や外から色々な声が投げかけられることがあってよいのがある。内政干渉になってしまうとまずいのはあるが、そうかといって、日本ではこうなっているとか、日本はこうするということは、それがそのまま正しいことを導くものとは言いがたい。それに、アメリカの軍事基地を新しく建てるのは、アメリカの意向が働いているのが強いし、日本の政権がおかしな忖度をアメリカに働かせているのもある。これは日本によるアメリカへの、大に事(つか)える事大主義によるものだ。

 いまの日本では国家の公が幅を利かせてしまっている。それが改められて、個人の私がとられるようになればよいのがある。国家の公が幅を利かせているのは、戦前や戦時中に見られたもので、領域の公だ。そうではなくて、人々が自由に政治などに批判を投げかけられるような、原理の公やつながりの公がとられてほしいものだ。

 参照文献『公私 一語の辞典』溝口雄三