社会保障にお金がかかりすぎているから、お金を削れ、という話ではないのではないか(目的は何かというのを改めて見るのはどうだろうか)

 日本の社会保障は、お金が多くかかるようになっている。財政の負担が大きくなっている。医療では、とくに後期高齢者が亡くなる前の一ヶ月で延命治療されるときにお金がかかる。これを健康保険の適用の対象外にしてしまい、お金を持っている人だけが延命治療を受けられるようにすれば、国の社会保障の費用を削れる。こうした話がされていた。

 いくら国の社会保障の費用が削れるからといって、後期高齢者が亡くなる前の一ヶ月において行なう延命治療を、お金をもっている人だけが受けられるようにするのはのぞましいことなのだろうか。色々な見かたができるものではあるだろうけど、個人としてはそうとは言えそうにない。

 話のとらえ方としては、人が死ぬさいの尊厳の話だとするべきではないか。すべての人がもれなく尊厳をもって生きて、尊厳をもって死ねるようにする。そこが公平になるようにしたい。ある人はたまたまつつがなく人生を終えられて、別の人はそうできないというのでは、不公平であって、まっとうな国や社会のあり方とは言いがたい。

 社会保障の中の医療の話で言えば、いまの医療のあり方を前提条件にしなくてもよいのではないか。医療というのはたんなる手段であって、そこでたずさわる人や、それを受ける人が、よりよいあり方になるようにできればよい。その目的がとれるように、よい手段を工夫することはできない話ではないだろう。

 医師の河合隼雄氏は、医学や医療というのを包摂するものとして、医ということを言っていた(『河合隼雄対話集 科学の新しい方法論を探る』)。病気を治すということは医学や医療によるものだが、それよりももっと大きなものとして、人間がよく生きて行くのや、人間らしく生きて行くのをうながすようなさまざまなものが、医ではとることができる。

 医療を含めて、社会保障では、お金が足りず、国の財政の負担が大きくなっているところはあるのだろう。お金のこととは別に、不十分なところもある。すべての人々を生きて行きやすくするようにはなっていず、手助けがいる人のところに十分に助けの手がうまく届いていないところが少なくない。役人のお役所仕事になっているのがあるので、人間らしい融通がきいていない。実質として公平なあり方になっているとも言いがたい。

 社会保障については、お金が多くかかっているとしても、お金のことに限らず、それが抱えている色々な問題を見つけて行くことが大事だろう。色々な問題をいくつも見つけていって、それらに一つひとつ対処して行く。これだけをやればよいという特効薬や即効薬はとれそうになく、現実においては一つひとつの問題を着実に見つけていって、解決することが遠回りのようでいて近道なのではないだろうか。

 社会保障を含めて、日本にはさまざまな危機があって、少なからぬ人々が生きて行きやすくなっていないのがある。これはなぜなのかというと、そのもっとも大きな原因は、これまでの政治家による政治の失政があげられる。

 簡単に言ってしまうと、長いあいだにわたって政権を担ってきた、いまの与党である自由民主党の政治家たちの責任だろう。権力を担う政治家たちや、それにしたがう役人たちが、難しい政治のことがらに挑むのを避けて、先送りしてきた。それがいまのありさまのもとになっている。まずは、そこの責任をはっきりとさせて、権力を担う政治家や役人たちが無責任なままでやってきたのや、やっているのを、許さないようにするべきではないだろうか。