大阪市は、サンフランシスコ市に建てられた従軍慰安婦の像について、たんに像を否定するだけではなく、メタ認知をすることがあればよい

 大阪市アメリカのサンフランシスコ市との姉妹都市の関係が、大阪市によってとり消された。サンフランシスコ市に従軍慰安婦の像が建てられたことを大阪市はよしとはせず、姉妹都市の関係をとり消すことにふみ切った。

 姉妹都市の関係は解消されてしまったが、大阪市によるこの意思決定は正しかったものだとは個人としては見なしづらい。この意思決定を大阪市がすることによって、何かものごとが具体的に解決したとは言えないだろう。一九五七年からつづくという姉妹都市の関係を保ちながら、問題の解決を時間をかけて探って行くことはできたはずだ。

 大阪市の文脈と、サンフランシスコ市の文脈とがぶつかり合う。それによって紛争がおきる。それで姉妹都市の関係がとり消されることになった。たとえ姉妹都市の関係を大阪市がとり消したとしても、それによって紛争が根本から解決したということにはならない。解決に役に立つ手段だったということはできづらいものである。

 サンフランシスコ市に従軍慰安婦の像が立てられたことで、大阪市長は、信頼関係が崩れたということを言っている。信頼関係が損なわれたところはたしかにあるのだろう。それが損なわれたのは、文脈どうしがぶつかり合うことになったのをあらわす。そうなったとしても、溜(た)めをもつことができればよい。

 溜めをもつのは現実には難しいことは少なくない。信頼関係が損なわれたさいに、そこですぐに切れてしまわずに、いったんカッコに入れられれば溜めをもてる。たがいの文脈をすり合わせるようにする。

 文脈どうしがぶつかり合っているとしても、その全体はとりあえず置いておくとして、部分としては折り合えることがある。部分における論点については相互に了解をもてることはある。部分の論点としては、個人の人権や、(単一ではなく)複数の歴史の文脈を尊重することなどがある。

 全体は置いておくとして、部分として折り合うようにするためには、象徴にしてしまわないようにすることがいる。象徴にしてしまうと、従軍慰安婦の像について、日本から見たら歴史としてまちがっているとなり、そのすべてを丸ごと否定してしまう。丸ごと否定するのではなく、部分としては認められるところがあるのであれば、そこについては認めるようにすることができる。

 従軍慰安婦の像が建てられた理念の一つである、女性の被害の防止や権利の向上や戦争の悲惨さの記録などについてはよしとすることができるものだろう。その論点については、大阪市とサンフランシスコ市のあいだに合意がとれるのがあり、そこから信頼関係をとって行くことはできる。

 歴史の論点については、大阪市長は歴史の真実ということを持ち出している。サンフランシスコ市が従軍慰安婦の像を立てたことは、(日本から見た)歴史をねじ曲げているものだという。歴史の真実のために、日本が国として立ち上がってくれるのであれば、サンフランシスコ市とやり合う意思があることを示している。

 歴史の論点として、歴史の真実というのを持ち出すのであれば、大阪市長が言うように、日本にとって有益になるものを前提条件(大前提)にするのはおかしい。歴史の真実を持ち出すのであれば、日本にとって甘いものではなく苦いものであるのをこばまないというのでないと、日本にとって都合がよいものである。

 たとえ日本にとって都合が悪く(甘くはなく)苦いものであったとしても、それが歴史の真実であれば受け入れるというのでないとならないものだろう。日本にとって都合がよくて甘いものしか受け入れるつもりがないのであれば、歴史の真実というのを持ち出すのはやめたほうがよい。閉じた物語にならざるをえない。閉じた物語である内向きの自己了解にとどまるのではなく、開かれたあり方による相互の了解ができるようになればよい。