雑誌の企画では、もとの発言について、そんなにおかしいか、という題になっているが、ますますおかしくなっている(そんなにおかしいかというどころではない)

 性の嗜好は他人に見せるものではない。迷惑だ。雑誌の記事ではそう言っているのがあるという。この雑誌の記事は、自由民主党の議員が、性の少数者について生産性が無いと言ったのに関わるものである。自民党の議員の発言を擁護するために企画が組まれている。

 雑誌の記事では、性の少数者について、倒錯的で異常な興奮に血走るものだとしているそうだ。犯罪そのものでさえあるかもしれないとも言う。

 性の少数者について、倒錯的で異常な興奮に血走るとして、決めつけてしまっている。性の多数者であっても、倒錯になることはあるし、異常な興奮に血走ることはまれではない。まちがった決めつけになっている。

 性の少数者は、性の嗜好によっているわけではないから、そこの認識は当たっているものではない。犯罪そのものでさえあるかもしれないなどとして、おかしな言い方をしているが、犯罪かどうかというのは、あらかじめ法律で定められているものである。他者に危害をおよぼすものであれば犯罪になるが、そうではないのであれば、性のあり方をふくめて、自己決定することが許されるのはまちがいない。

 自由主義では、もし自分が性の少数者であればという想定をとることができる。多数者ではなく少数者である想定がとれるので、そのさいに多数者から不合理な差別や偏見をもたれるのは受け入れられるものではない。性における多数者か少数者かは反転することができる。自分が少数者であることもあるのだから、少数者が社会の中で尊重されるのがのぞましい。

 性の少数者のことをさす LGBT はふざけた概念だ。記事の中ではそう述べているという。これは LGBT を不当に悪く一般化してしまっている。LGBT の概念にたいするまちがった思いこみだろう。ふざけたという形容は主観によるものであり、客観とは言えない。

 身体の性のちがいは染色体によって決まるが、これについて、性は XX のメスか XY のオスしかいないと雑誌の記事ではしている。雄しべと雌しべのほかに、レズしべやゲイしべなどは無いという。

 XX と XY はあるが、レズしべやゲイしべは無いということだけど、すべてが染色体によって決まるわけではないだろう。性のちがいは染色体によって還元することができるものではなく、ほかの色々な要素が関わっているものだととらえられる。

 性のちがいというのは、身体の性(セックス)と文化の性(ジェンダー)があるとされている。そうしたちがいがあるから、それらについてそれぞれに見て行かないとならない。男性か女性かというのだけではなく、その二つのあいだの連続したところを見ることができる。

 ユングの心理学では、アニマとアニムスというのがあるという。男性の中にある女性の部分や、女性の中にある男性の部分があるとされる。男性は男性とするのや、女性は女性とするのは、それぞれを基礎づけてしまっている。したて上げているものだろう。現実のあり方としては、基礎づけることはできるものではない。

 男性なら男性とするのや、女性なら女性とするのは、基礎づけているものであり、白なら白というふうに純粋に見るものである。しかしじっさいにはそうではなく、まったくの白というのではなくて、白の中に黒が混じっていたり、黒の中に白が混じっていたりする。

 男性や女性というのが実体としてあるわけではない。表象や記号である。抽象によるものだから、人によって頭に思いえがくものにちがい(差異)がある。男性と女性の記号は関係によるものであり、そのあいだにある分類の線は揺らいでいる。きっちりと線が引かれているのではない。男性と女性というのだけでは、じっさいの性のありようを見るさいに、ざっくりとしすぎている。

 男性と女性というのだけでは、たった二つしか概念がないので、概念の数が足りない。もっと概念の数を増やしたほうがより現実に適った見かたをすることができる。概念はものを照らす明かりであり、明かりが当たらない暗いところができる。明かりがおよばない暗いところに明かりを当てるようにする。

 現実は単純なものではなく、複雑なあり方をしているのがあるので、色々な見かたが成り立つ。

 染色体を理由にして、男性と女性しかなく、そのほかの性の少数者によるあり方はないのだとするのは、それそのものが男性中心主義による見なし方に通じる。男性中心主義では、男性を優として、女性を劣とする。その劣の中に、性の少数者によるあり方を含めてしまう。男性や女性だけではなく、そのほかの色々な性の少数者によるあり方があり、それらすべてが互いに平等になるのがのぞましい。

 性の少数者によるあり方を悪玉化して排除したところで、社会がうまく行くわけではない。再生産がうまく行くことにはつながらない。むしろその逆に、男性と女性だけではなく、ほかの色々な性のあり方を認めるようにして、みんなが安らいで生きて行けるようになれば、そのほうが社会がうまく行くようになる見こみが成り立つ。人口が拡大する再生産にまちがいなくなるとはならないかもしれないが、単純(定常)な再生産はうまく行く見こみは十分にとれるだろう。

 性の少数者が、生きて行きづらい。生きて行きづらさは、性の少数者が悪いのではなく、その外をとり巻く社会の環境が悪いせいだとできる。生きて行きづらさがあるのを、生きて行きやすいようにする。自己責任だとしてしまわない。それがよいのではないだろうか。生きて行きづらいのを生きて行きやすいようにするには、十分に承認するようにして、そのうえでできればお金などで支援もできればよい。かりにお金で支援はすぐにはできないにしても、せめて承認は十分にしたいものである。声を受けとめられるようにできればよい。