像を承認しないことは、日本にとって損や不利益になりかねないのではないか(過去にあったことと向き合わないことになるため)

 台湾には従軍慰安婦の像が建っている。その像を、台湾を訪れた日本人が蹴った。監視カメラにその映像が映っている。日本人が像を蹴ったことを受けて、台湾では抗議の声が上がっているという。

 日本人が像を蹴ったとする見かたがあるが、そのいっぽうで、蹴ってはいないという見かたもとられているようだ。像を蹴ったと言っても、思いきり蹴とばしたというほどではないようである。まちがいなく蹴ったのだという見かたがあり、そうではなく蹴ったそぶりをしただけだという見かたもとれるのかもしれない。

 像を蹴った人は、蹴った(ように見えるふるまいをした)わけとして、長旅でうっ血した足をストレッチで伸ばしただけだと言っているそうだ。日本と台湾は地理としてそこそこ近い距離にあるのだから、長旅とは言えないだろう。

 りっぱな大人であるから、像の前で像を蹴るようなそぶりをすれば、どう見なされるのかくらいはわかっているはずだ。きわめて苦しい言いわけだと言わざるをえない。足のストレッチをするのであれば、それに適した場所とそうでない場所があるし、ストレッチをそこでどうしてもしたくてたまらないというのは考えづらい。

 台湾の像は、日本をおとしめようとする中国の勢力がつくったものだと、像を蹴った人は見なしているという。日本をおとしめようとする中国の勢力によるとのことだが、その根拠となる具体の事実がないのであれば、確かにそうだとは言えそうにない。憶測の域を出るものではない。

 像を蹴ったとされる日本人は、慰安婦像が台湾にあることが許せなかったのだろう。しかし、台湾にとってみれば、従軍慰安婦の像を台湾に建てる必要があったというのはおしはかれる。あくまでも台湾の立ち場に立てば、従軍慰安婦の像を建てることの意味あいは決して小さいものとは言えそうにない。

 従軍慰安婦の像を台湾に建てるのはおかしいことだというのは、日本における歴史のあり方の一つとしてはとれる。その歴史のあり方が絶対に正しいものだとまでは言えないから、唯一の真実とは言うことはできそうにない。

 台湾には台湾の見なしかたがあってよい。日本にとっての、日本がのぞましいとする一つのあり方だけではなくて、色々な見なしかたがあってよいのではないか。そうすると、日本が損をこうむることになるおそれがある。そうはいっても、台湾にある従軍慰安婦の像は、かつて台湾の人々が日本から被害をこうむったことを形象化したものである。暴力のしうちを受けたできごと(事件)の形象である。かつて日本は台湾に害を与えたのであれば、台湾に像があることを日本は受け入れることがあってよい。

 台湾から見た(かつての)日本ということで、従軍慰安婦の像が建てられる。さまざまな日本のうちの一つに、それがあると見なせる。日本(の本土)から見た日本だけが、日本であるのではない。単数ではなく、複数の日本があるとすればそうできる。まったく偏向のない歴史の見なし方はない。人間の行なうことには合理性の限界がある。無びゅうではなく可びゅうをまぬがれない。こうしてしまうと、相対化になってしまうのはあるが、まったくの客観というわけには行きづらいのはある。