力関係の嫌がらせ(パワー・ハラスメント)やいじめをされる。それをしてくる相手(加害者)とは戦わないのがよい。相手と戦うと、自分の貴重な時間と、自意識を失う。相手とではなく、自分と戦うようにする。テレビ番組で、出演者はこう言っているという。
テレビ番組の出演者は、パワー・ハラスメントやいじめをしてくる相手とは戦わないほうがよいという。はたしてそうするのがよいのだろうか。これにはうなずくことはできそうにない。戦ったほうがよいこともまちがいなくあるだろう。
相手と戦ったとすれば、自分の貴重は時間を失うかもしれないが、自意識を失うことには必ずしもならない。自意識を失わないようにしつつ戦うことはやりようによっては十分にできる。
ひと口にパワー・ハラスメントやいじめといっても、さまざまなものがあるから、それを見ないとならない。性急に一般化するのは避けるようにする。中には悪質なものがあるのだから、それをされたときに、相手とではなく自分と戦うのは、おかしなことになる。悪質なものであれば、被害がおきているのであり、とりわけ放っておくわけには行きづらい。
パワー・ハラスメントや(その他のハラスメントや)いじめは、それそのものがよい価値をもっているものだとは見なしづらい。悪いものだと見なせる。パワハラやいじめをしなければならない状況というのは考えづらい。必要性がないのだから、許容性もないだろう。(された方が)受け入れることは基本としてはすることはいらないものである。現実としては、ものによっては受け入れざるをえないことはしばしばあるかもしれないが。
例えとしてふさわしいかはわからないが、二人の人がいて、いっぽうが他方をなぐったとする。なぐられた方は、相手とは戦わず、自分と戦う。これはとんちんかんなものだろう。なぐられた方は、なぐった方にたいして、何でなぐったんだとか、なぐるのはおかしいだろ、と抗議するのがあっておかしくない。なぐり返すのだと、なぐり合いになってしまうかもしれないから、それは避けられればのぞましい。
パワハラや(その他のハラスメントや)いじめは、一つの問題だというのがある。この問題を何とかして行くさいに、相手とは戦わずに、自分と戦うことで、何とかなるものだろうか。問題が解決するものかといえば、そうとはできそうにない。パワハラやいじめをされるのは、あってはならないことだし、おかしいことなのがある。
自分の負の経験を一般化できるとすれば、どうしたら社会や世界の中からパワハラなどのハラスメントやいじめを少しでも減らしたり無くしたりできるのか、というふうに見て行ける。なぜハラスメントやいじめがおきるのかとして、結果にたいする原因を見て行くことができる。