デモよりもより優れた社会を変える手段(方法)が、力づくの物理的な暴力を除いて、めぼしいものがほかにあるとは言えそうにない(さまざまな手段には、利点と欠点がある)

 デモをやっても社会は変わらない。社会を変えるのは、黙々と労働をしたり家事をしたりしている人たちである。この意見では、デモをやっても社会は変わらないということが言われているけど、必ずしもそうとは言えないのがある。

 たしかに、デモを行なったとしても、それですぐに社会が変わることにはなりづらい。しかし、それ以外の手として、黙々と労働をしたり家事をしたりするのはあまり優れたものではないだろう。社会を変えるために労働をしたり家事をしたりするわけではないわけだし。選挙は数年に一回しかないし、一人一票しかないので、かなり限定されているのがある。選挙の期間には、政治家に都合の悪い政治の争点はほとんどとり上げられない。選挙に行って投票して、労働や家事をして、その上でデモをする、というのもあるから、色々な手段が開かれているのは、少ししか選べないよりはよい。

 デモをやるのは、自己決定によって決められるものである。憎悪表現(ヘイト・スピーチ)を含めて、他者にたいして危害を加えるものでないのであれば、デモを行なうのはあってよいものだろう。それを行なうかどうかは、個人が自分で決めればよいものであり、やりたい人がやるのはよいし、やりたくない人はやらないのもよいことだ。

 ある一つの視点ということにすぎないものではあるが、デモをやらないのは大人しすぎるという見かたもとれる。客観ではなく主観のものにとどまるものではあるけど、何かよくないことがおきて、それにたいしてデモなどによって声をあげないのではなく、あげるべきだという見かたが成り立つ。よくないことがおきて、それにたいしてデモなどで声をあげるのは、流れとしてうなずけるものだろう。声をあげないで大人しく黙っているのだと、それでよいのだというふうに政治家がまちがった勘ちがいをしかねない。

 デモを行なうことと、社会が変わるかどうかは、はっきりと結びつけられるものとは言えそうにない。デモを行なうことと、社会が変わるかどうかは、それぞれに別々のことだと見なせる。社会は日々変化して行くという点では変わって行くものであり、まったく動きのないものとは見なしづらい。社会を変える主体として、誰がそれに当てはまり、誰が当てはまらないというふうにすることはいらず、みながその主体になれるのでよいはずだ。

 かりにデモを行なっても社会が変わらないのだとしても、社会が変わらないことにたいするデモというのもあってもよいのではないか。社会の変わり方が遅いということにたいしてデモをすることもできる。色々なデモがあるわけであり、その中身(言っていることの中身)を見ることができる。ひとくくりにするのは、一般化することになる。すべてのデモについて言うと、一般としてということになるから、そこまでは言えないのはあるが、一つの視点としては、デモを行なっている人たちがどうかというよりは、それをとり巻く外の環境である社会がおかしいというのはある。おかしいのやまちがいにたいしてデモで訴えるのが一つにはあるから、外の環境である社会におかしさやまちがいがあると言えるだろう。