自分の見かたを確証(肯定)するのではなく、反証(否定)することができれば、確証の認知のゆがみによる意思決定をするのを避けやすい

 雑誌の記事の中で、性の少数者にたいして生産性がないと言った自由民主党の議員には、認知のゆがみがおきている。雑誌の記事を要約したツイッターのツイートを見ると、そうしたことがうかがえる。人間には誰しも多かれ少なかれ認知のゆがみがあるものではあるが、だからといってそれをそのままにしてよいことにはなりづらい。とりわけ権力をもつ与党の政治家にはそれが言えるだろう。

 はじめの認知に大きなゆがみがあると、そこから話を進めるにあたり、そのゆがみが増幅されてしまう。それを防ぐためには、はじめにある認知のゆがみをいかに少なくすることができるかが大切である。これがたとえ頭の片すみではわかっていたとしてもじっさいにはできづらいことはあるが、はじめにある認知のゆがみをできるだけ少なくするように努めることはいるものである。とくに権力をもつ与党の政治家にはしてほしいものである。

 自民党の議員は、自分には性の少数者の友だちがいるとしているようであり、そうしたつき合いがあることはよいことだろう。そのうえで、それとは別に、一つの価値による見かただけではなく、さまざまな価値による見かたに触れて行くことが足りていないように見うけられる。それに触れるのが足りていないために、一つの価値による見かたの濃度が濃くなってしまっている。それをうすめることができればのぞましい。

 濃度をうすめて行く過程で、部分的な偏りやおかしさやまちがいに気がつくことができやすい。修正がききやすくなる。それとは逆に、濃度を濃くして行く過程をとってしまうと、お仲間を増やすことはできるが、修正がききづらくなる。これは補正と補強のちがいであると言えるだろう。補正ではなく補強して行く方向に向かうと、濃度が濃くなってしまい、認知のゆがみを省みる機会をもちづらい。それが強まることになる危なさがある。一神教のようにではなく、価値の多神教として、うすめたほうが、物語を相対化できるので、大きな危なさを避けやすい。

 社会学者のカール・マンハイムは、人間には存在の被拘束性がはたらくと言っているという。これがはたらくのがあるので、まったく偏りのない中立の見かたは成り立ちづらい。中立ではなく偏った見かたをしているのだという自覚を、とりわけ権力をもつ与党の政治家にはもってほしいものである。ものごとを認知するさいには、まったく偏りのない中立のところから見るのではなく、何らかの先入見が入りこむ。虚心で見るのはできづらい。物語をとることになり、解釈がはたらくことになる。ものさし(価値意識)を当てて見るさいのものさしが、完全な正しさをそなえていないで、限定されているものであるのは疑いがない。

 ねばならないというふうにしてしまうことがあるが、これは精神医学の認知療法では不適応の思考と言われるものに当たるものであるという。ねばならないというふうにはしなくてもよいことはじっさいには少なくない。できるだけねばならないというふうにはしないようにして、柔軟にとらえることができれば、硬直した不適応の思考を改めることにつなげられる。

 自民党の議員でいえば、国のために国民は生産性をもたなければならないのかというと、そうではないものだろう。生産性はあってもよいが無くてもよいものである。首相は憲法の改正をしようとしているが、これについては、どうしても改正しなければならないとは言えないのがある。ねばならない(改正しなければならない)とは言えないものである。多面で見たほうが適応の思考をとりやすい。いまの自民党は、認知のゆがみがはたらき、ねばならないで凝り固まっていて、手段の目的化がおきている。それで色々な深刻な不正とその隠ぺいをしでかしているのである。森◯学園や加◯学園の問題とそれによる膿(うみ)はその例である。