生まれた国だからといってよいとはならないから、その国がどういう過去の負のあやまちをおかしたのかをなるべく見られればよい(いたずらに栄光化するのは賛同できない)

 生まれた国を愛するのは自然な感情である。それを表明することで誰かに非難されるのはあってはならないことである。誰に気がねすることなく愛国心を表明できる国にいつかはなってほしいものだ。産経新聞の投書の欄にこうしたものが載っていた。この意見には個人としてはうなずきづらいという印象を受ける。

 生まれた国を愛するのは自然な感情だということだけど、それは必ずしも言うことができないものである。たまたま偶然にその国に生まれたにすぎないのだから、自然に愛する感情が生まれてくるとは見なしづらい。誰もがもれなく自然に国を愛する感情をもつとすれば、基礎づけてしまっていることになる。しかし基礎づけることはできそうにない。

 もし基礎づけてしまうのだとすれば、一神教のようなあり方になる。しかし現実には多神教のようなあり方になっていると見なせる。人それぞれでさまざまだということである。神の死があり、最高価値の没落がある。すべては力への意志によるのであり、さまざまな遠近法による解釈があるのにすぎない。国を愛するということが、そうでないことよりも、より優先して価値づけられるものとはできづらい。国を愛するという価値は、当然のことながら、批判をされなければならないものである。この批判は、全否定をするものではない。どのような価値であっても、批判にさらされることがあってよい。批判的合理主義である。

 日本という国は、必ずしも自明であるとは言えないものである。一つの国というのにとどまらず、複数化することができる。日本から見た日本というのでも、色々な人によって見かたがちがう。日本の外から見た日本というのも色々とある。それらをすべて含めて、複数の日本というのがあると見なせる。内からではなく外から見たほうがより正しいこともなくはない。

 国を愛するというのはいったいどういったことなのだろうか。国といってもどこかに目に見えるものとしてあるものではないし、手で触れるものでもない。観念であり思いこみの産物だろう。国ということで言われていることを改めてとらえ直すことができる。臆見(ドクサ)や偶像(イドラ)が少なからず入りこんでいる。いま一度カッコに入れてみて、記号表現と記号内容をそれぞれに見てみることができればよい。

 産経新聞の投書では、いつの日か気がねなく国を愛する気持ちを表明できる日がくればよい、としているけど、問題はそうしたところにあるのではなく、たんに国を愛する気持ちというのからはみ出してしまっているものがあるから問題だということができる。たんに国を愛する気持ちというのにとどまらず、そこからはみ出してしまっているのを、あたかも無いことにはできづらい。そこを軽んじてしまい、見なかったことにするのは、のぞましいこととは言えそうにない。おもて向きの指示(デノテーション)とは別に、言外に暗示(コノテーション)してしまっているものがある。

 国を愛するというのは、それだけにとどまればまだよいけど、現実にははみ出てしまうようになるものである。じっさいに、問題となっている歌の歌詞では、そこからはみ出してしまっているところがありありと見うけられる。だから一部で物議をかもしているのだととらえられる。はみ出してしまうのは、力への意志であるからであり、力への意志は力の増大を目ざすものであるとされる。

 力が増大するのは国家の公が肥大することであり、これは戦前や戦時中に個人の私(の自由)を押しつぶしたものである。投書では、愛国心と平和を愛することは背反せずに両立するとしているが、両立することはまれであり、背反するおそれは決して低くない。いざとなったときに、背反したとして、平和のために愛国心を捨てることができるのだろうか。そこに本音があらわれるものだろう。国を愛するのは、国から利得(うまみ)を得ようとすることにつながりかねず、それは平和には結びつかず、戦争に行きつく危うさがある。いつもいつも冷静でいられればよいが、思い入れが強いほどに、直情径行になりやすい。