福田元首相が公文書について言っていることが、現役の与党の人たちにおいて、基本としてふまえられればよい(いまの政権の危機だということで、基本とするべきことが、ふっとんでしまっているように見うけられる)

 公文書の改ざんは、首相の答弁がきっかけだった。そう述べた自由民主党の議員は、あとで自分が言ったことなのにもかかわらずそれを撤回したと言う。公文書の改ざんは首相の答弁がきっかけだというのは、自民党の中では言ってはいけないことになっているようだ。

 福田康夫元首相は、公文書をきちんと残しておくことが、国にとっていかに大切かを報道機関の取材において言っている。ほんらいであれば、福田氏のような認識を、いまの自民党のすべての議員の人が、基本のこととしてもっておかないとならないことなのではないか。それが基本にあって、そのうえで何かを言ったりやったりするようであるのがのぞましい。

 福田氏が言っているようなことが基本としてあるのではなくて、それを欠いてしまっているように見うけられる。なぜそうなっているのかというと、いまの政権の危機は、自民党の危機であり、自民党に所属している人々の危機であるとして、つなげてしまうことによっていそうだ。つなげてしまうことで、いまの政権と一体化してしまい、距離がとれなくなる。価値判断が大きく偏ってしまうことになる。

 福田氏の言っているようなことが基本としてあれば、価値判断を偏らないようにすることができる。公文書をきちんと残しておくことや、残っている記録をきちんと重んじてとり立てることなどに、重い価値をおくようにする。そうしたことが逆に軽んじられてしまっている。

 いまの政権が正しいことをする保証はまったくなく、たまたま時の政権としているだけなのだから、安定しているものではない。安定していないものにすがってしまうのは確かなことだとは言えそうにない。頼りになりづらいものである。活動して行くなかで乱雑さ(エントロピー)がしだいにたまって行くのは避けづらい。

 安定しているとするのは、無びゅうだとすることである。しかし現実には無びゅうであることはできないものであり、可びゅうであるのをまぬがれない。可びゅうであるのはおろか、まちがいつづけるということもないではない。まちがうのは避けられないのだから、あっているときもあるしまちがっているときもある。つねにあっているとして安定したものとするのであればそれはおかしい。

 平準化により画一になっていると、おもて向きは安定する。いっけんするとふだんは波風がたっていないようでも、いざことがおきれば、たちどころに大きくゆれ動く。いざとなるともろい。そうしたもろさは、権威にすがることによっておきるものである。

 権威にすがらないようにすると、少なからずゆれ動くことになるが、少しずつゆれ動きつづけていると、小出しにすることができるので、大くずれを防げる。大くずれを防ぐためには、平準化による画一さをとるのではなく、みんなばらばらでそれぞれがちがっている方がよい。それぞれがちがうことを言ったりやったりしているくらいのほうが、全体としてのつり合いがとれやすい。いざというときに総くずれにはなりづらい。

 あくまでも、公文書をきちんと残したり、記録をきちんと残してそれをとり立てたりすることがしっかりとできている条件があってはじめて、ぎりぎりで政権がやっていることが認められるというていどにすぎない。その条件がとれていなくて、自分たちで壊してしまっているていたらくである。そうであるくらいなのだから、それにすがろうとしたり頼りにしようとしたりすることは、改めて見ればそうとうに危ないことだろう。そうとうに危ないのをうら返せば、そこに少なくない利益(私益)があるというのもあるかもしれないが(ハイリスク・ハイリターン)。

 いまの政権にたいして、一神教のようにあがめたてまつるのはよいことではないので、福田氏の言っていることなどに、与党の人たちはきちんと耳をかたむけるのがあるとよいのがある。福田氏のほかにもきちんとしたことを言っている人は与党の外にいるのだから、そうした人たちの言うことを、与党の人たちはまともに受けとめて生かしてくれればよい。