総理は嘘をつくような人ではないというのは、確証の認知の歪みがはたらいている気がする

 二〇年来のつき合いで、総理は嘘をつくような人ではない。山本一太議員はテレビ番組で、首相についてそのように述べていた。ほんとうに首相は嘘をつくような人ではないのだろうか。そこが疑わしい。

 一つには、山本議員が嘘をついているかもしれないということがある。もしそうであれば、首相は嘘をつくことがあることになる。山本議員も、首相も、どちらも嘘をつくことがある人だとなる。

 山本議員は嘘をついているわけではないというふうにも見られる。嘘をついていると決めつけないようにすることができる。決めつけるのはしないようにすることはできるが、山本議員には少なからぬ認知の歪みがはたらいていると察することはできる。

 総理は嘘をつくような人ではないという山本議員の見なし方に、少なからぬ認知の歪みがはたらいているという見かたが成り立つ。これは、そこまでおかしな見かたとは言えそうにない。人間には一般的に、ものを見るときに認知の歪みがはたらくことが少なくないから、それがまったくないというふうには考えづらく、多かれ少なかれ偏っているとできる。

 二〇年もつき合いがあるくらいだから、思い入れはそうとうにあるはずである。それにくわえて、総理は嘘をつくような人ではないと見なすことは、山本議員に少なからぬ利益をもたらすはずであり、その点でも認知は歪んでいるということが言える。

 かりに、山本議員の前では首相は(山本議員にたいして)嘘はつかなかったのだとしても、それは山本議員に限ったことであるかもしれない。原則として嘘をつかないのだとしても、まったく例外がないとは言えそうにない。山本議員の前では少なくとも嘘をつかないというのが、もしかすると首相の嘘の面なのかもしれない。これはやや疑いすぎかもしれないが、そのおそれは完全には払しょくすることはできそうにない。

 首相が嘘をつくかつかないかというのはとりあえずおいておくとしても、首相は自分の名誉というのをけっこう重んじている。名誉というのは虚栄心でもある。虚栄心というのは自己欺まんが関わってくる。そこに嘘がつけ入るすきがかなりあるという見かたが成り立つ。清濁あわせ呑むというよりは、濁をしりぞけて清だけをとろうとするふしが見うけられる。

 濁を人から言われると、それは印象操作だとすぐに言い返して否定をすることが少なくない。濁の事実をやっきになって否定するのは、ひいては嘘をつくことにつながってくるのがある。それが現実のさまざまな政治の失敗や失態につながっているのではないか。濁をきちんと受け入れられるだけの器の大きさがあれば、おこさなくてもすんだ負のことがらも少なくはないものだろう。

 二〇年来のつき合いで首相は嘘をつかない人なのだから、嘘をついてはいないはずだ、とする見かたは適したものだとは言いがたい。首相は国の権力者であり、権力者を信頼するのは専制主義に行きつく。専制主義を肯定する(民主主義を手ばなす)のでもないかぎり、嘘をついているのではないかとたえず目を光らせているくらいがちょうどよいのではないか。

 首相は権力者であり、権威をもっているので、その権威をそのまま受け入れるのはまちがった盲従をすることにつながりかねない。権威をもつ人の言うことはすべて正しいとはできないのがある。権威主義になるのを避けられればよい。ふつうの人とまったく同じように、権威をもっている人にも認知の歪みがはたらいているのはまちがいない。人間には合理性の限界があり、誤りをおかすのを避けられないのがある。それをまぬがれている人は、社会の中でおそらく一人もいないはずである。

 首相は嘘をつくような人ではないというのは、首相のことを仕立て上げてしまっている。仕立て上げることは基礎づけることだけど、じっさいにはそうできづらいものである。いままでに嘘をついてこなかったとしても、これから嘘をつかないとは限らない。少なくとも、嘘をつくのとつかないのと二つの見かたをとれるのはあり、時間の要素を組み入れれば、安定した見かたはとりづらい。不安定であり、不確実である。絶対で確実なものとはしづらい。首相は嘘をつかないとするのではなく、ふつうの人とまったく同じで、嘘をつくものだとして、どんどんずらして行くのがふさわしい。