疑いを晴らすというのが目的だとしても、そのための手段が十分にとられていないのがある

 疑いは晴れたと思っています。首相をふくめた政権与党と省庁の疑惑について、当事者の一人が証人喚問にのぞんだことを受けて、与党の議員はこのように言っていた。証人喚問にのぞんだのは、疑惑をもたれている政権与党とかかわる省庁の一員の人だったのがあるので、そちらの側に偏った立場の受け答えをしてしまっているのがある。

 形式として証人喚問を行なったのだとしても、実質として疑いを晴らそうという気がないのであれば、形式の手つづきをふんだというのにすぎない。形式の手つづきをふんだのだからそれでよいだろうとか、やることはやったとかいうのであれば、中身が無視されてしまっている。みんなが十分に納得するような中身をともなっていないのであれば、肝心の中身が不十分であるのを無視できない。十分な中身のともなっていない形式であるのなら、胸を晴れるものだとはいえそうにない。

 与党の議員の人は、疑いは晴れたと思っていますと言っているけど、疑いは晴れたと思っていますという発言を疑うしかない。(疑っていないで)疑われている側が、疑いは晴れたといっても、いまひとつ説得力が不足している。疑っている側である反対勢力が、疑いが晴れたかどうかを決めるのがふさわしいだろう。疑いはいぜんとして晴れていないというところから出発するのはどうだろうか。

 疑いをもつのがいけないことなのではないし、それをまともに受けとめるのがあってもよさそうだ。まともに受けとめるのは、自分たちはこうだけど、それにたいして別の人はこう言っている、ということで、別の人はこう言っているというのを頭ごなしに拒まないでできるだけしっかりと受けとめることである。受けとめるのがあって、疑惑を改めてみんなで見るのがなされることで、それを経てようやく疑いが晴れたかどうかを確かめることができる。