差別がなくなったら困るという仮定は現実味があるかどうかは疑わしい(現実の秩序は差別によっているのがある)

 ほんとうに差別を受けている人たちなのではない。差別がなくなったら困る人たちであり、被害者を利用する商売をよしとする人たちである。日本にはこうした人たちがとても多い。それが問題である。自由民主党杉田水脈議員は、このようなツイートをしていた。

 被害者を利用する商売は、被害者ビジネスというそうだけど、これは医者とちょっと似ていそうだ。医者の仕事も、病気の患者がいなくなったらやることがなくなる。それと同じように、被害者がいなくなったら、被害者を利用する商売もできなくなってしまうというわけである。

 被害者がいなくなったら、被害者を利用する商売はできなくなるわけだけど、その心配をするのは、被害者を利用する商売をしている人がすればよいことである。被害者がまったくいなくなれば、被害者を利用する商売ができなくなり、やることがなくなることになるが、それはそれでよいことであり、本望であると見ることができる。被害者を利用する仕事の冥利につきることなのではないか。

 被害者を利用する商売をしている人は、ほんとうに差別を受けている人ではないのだとしても、それだからいけないとは必ずしも言えそうにない。ほんとうに差別を受けている人は、自分で声を上げることができないかもしれないし、手助けがいるのがあるとしたら、手を差し伸べるのはよいことである。お金もうけがからむのだとしても、何かをやるさいには先立つものがいるのがあり、お金がないと活動ができづらいというのがある。まったくお金をかけずに活動できれば一番よいだろうけど、そうも行かない現実があるとすることができる。

 お金をもうけるために、差別を受けた人を手助けしたり、差別をなくそうとしたりする。それがけしからんことかどうかを改めて見ることができる。お金をもうけるためにというのは動機に当たるのであり、動機論で忖度することによる見かただ。どういった動機によるのかは、外から見て完全に推しはかることはできづらい。悪意であるとはかぎらず、善意によることがある。

 動機論で忖度することによって、悪意で動いているのにちがいないと見なすこととなる。悪意というのは、お金もうけのためにということである。じっさいにはお金もうけのためにやっているのではないのだとしたら、外から決めつけていることになるし、独断と偏見によっている見かたである。お金もうけのために、被害者を利用する商売をしていると見なすのは、一次の差別の被害者を手助けしようとしたり、一次の差別をなくそうとしたりする人たちにたいして、二次の差別をすることになりかねない。二次の差別は派生によるものであり、それがおきないようにするのがよい。

 二次の差別の派生は、過度の不当な一般化である。過度の一般化や過度の単純化をしないようにできればのぞましい。被害者を利用する商売をしているのにほかならないとしてしまうと、そうではないことがあるのを捨象してしまうことになる。仕立てあげてしまうことになる。

 被害者を利用する商売はよくないとして、被害者を利用する商売はよくないということで商売をする人たちはどうなのだろう。被害者ビジネスはよくないとしてビジネスをする人がいるとして、それはよいことかよくないことかを見ることができる。何々はビジネスだからよくない、ということでビジネスをする人たちもいる。何々はビジネスだからよくないというのは、何々によってお金もうけをするのはよくないということであり、何々によってお金もうけをするのはよくないということでお金もうけをする人もいる。

 何々はビジネスでありお金もうけのためだからよくないというのがあるとして、ビジネスでありお金もうけのためというのは前提に当たるわけだけど、その前提がちがうことがある。ビジネスやお金もうけのためにやっているのではないのだとしたら、まちがった動機論の忖度をしていることになる。

 被害者を利用するといっても、被害者の手助けをするのは基本としてよいことだろう。よいことをして、お金もうけもしないのであればそれが一番よいことかもしれないけど、理想としてはそう言えるとしても、現実としてはできづらいかもしれない。暴利をむさぼっているというのではなくて、適正の取り引きであるのならよいし、協賛をつのるのが悪いことだとはいえそうにない。

 差別の被害をこうむらないのや、被害者が救われるのは、基本の人権の尊重である。基本の人権が尊重されるのは、かなり優先順位の高いことだと見なせる。悪だくみとして、被害者を悪用する商売をする人もいるだろうけど、その不正は、正が行なわれるよりもより優先してとりしまるべきことだとは言えそうにない。まず優先するべきは、基本の人権の尊重が満たされることだろう。その次に、不正が行なわれないようにするのをやるか、もしくは並行してやってもよい。基本の人権の尊重である正を行なうか、それとも不正が行なわれないようにするかといった、あれかこれかの話ではないだろう。

 正を不正だととりちがえるのはまずいことであり、のぞましいことではない。正が十分に行なわれていず、広く満たされていないから、不正が行なわれてしまうのがある。正が十分に行なわれるようにして、広く満たされるようにすることが、不正が行なわれなくなることにつながる。先決なのは、(被害者の救済などの)正がきちんと十分に広く行なわれるようにすることであり、その次にか、または並行して、不正が行なわれないようにすればよさそうだ。不正が行なわれないようにするさいに、正を不正ととりちがえてしまうのに十分に気をつけられるとよい。