菌と抵抗力のせめぎ合い

 野口整体創始者である野口晴哉氏に、風邪の効用というのがある。これについてはつまびらかには知らないのだけど、風邪を引くことは必ずしも悪いことではなくて、それによって体が浄化されるのがあり、毒が体の外に出ることになるので、よいものでもあるということだろう。

 権威主義の体制は、風邪を引かない健康な体のようなものであるかもしれない。風邪を引かない健康な体は丈夫であり、大変によいもののように見なせるけど、かえって危ないところもある。風邪を引くことによって体が浄化されたり毒が外に出たりする機会がないわけだから、体の中に負のものがたまってしまっているおそれがある。ずっとぴんぴんとしていたのが、あるときに突然に倒れてダウンするということもないではない。

 風邪を引かない健康な体の人のなかには、ほんとうにまぎれもなく健康な人もいるだろうから、そういった人であれば、ぴんぴんさを保てるだろうから、だし抜けにあるときに倒れてしまうようなことはあまりないものだろう。

 人間は過剰な活力をもったものであり、健康であるときには過大化になっている。風邪を引いたときのように病気のときには過小化となっている。健康なときは好調であり、病気になってしまったときは不調である。不調なときは苦しいものであり、出口が見えづらいときにはなおさらそうであるのはたしかである。うまくして出口が見えてくるのであれば、過小化から過大化に切り替わったことをあらわす。

 ずっと過大化しているのだと危ない。なので、ときには風邪を引くことで過小化するのがあると、過剰な活力をうまく処理できる。効用がある。風邪をまったく引かないようなぴんぴんした健康で丈夫な体もありえないではないだろうけど、どこかで突然に倒れてダウンしてしまうおそれがないではない。過大化をしつづけることはできないというわけだ。過小化として風邪を引くことがたまにはあると、それによって健康のありがたみがひしひしと思いおこせる効用がある。

 人間工学では、人間は基本として失敗するものである、とされているようである。失敗をしない人もなかにはいるかもしれないが、それはあくまでも例外であり、その例外をもととしてしまうのだと適したものにはなりづらい。まちがいをおこさないというのであれば、無びゅうであるわけだけど、そうではなくて可びゅうであると見なすことができる。無びゅうであるとするのは、ずっと過大化しつづけるようなものであり、成功しつづけるようなものである。

 まったく失敗をせずに、転ぶことがなく、成功しつづけることができるものだろうか。現実にはちょっとありえないものだろう。もし失敗したとして、転んでしまったことになるわけだけど、そのさいには風邪を引いたようなものであるとできるとすると、風邪の効用がおきることが見こめる。この効用をとることができるとすれば、過小化になってしまうものではあるけど、悪いものを外に吐き出して浄化することが見こめる。

 適したときにうまく風邪を引いてしまうことがないのであれば、悪いものを外に吐き出せないし、浄化することができない。そのことでかえってあとになって風邪をひどくこじらせてしまうことがおきかねない。もはや過大化することに限界をきたしているのがあるのにもかかわらず、あいかわらず過大化しつづけようとするのだと、自然に反することになりかねない。

 自然に反するものは、反自然(アンチ・フィジス)であり、崩壊をまねく。すべてにおいてそのように言うことができるものではないだろうけど、一つにはそのように言うことができるのがありそうだ。これはモリエールが言っていることであるという。自然(フィジス)は善美と調和を生み、反自然はあらゆる破綻を生じさせる。このさいの自然とは、色々なとらえ方ができるだろうけど、人間の尺度を超えたものであるということが一つにはできる。人間の思い通りに行くものばかりではないので、人間の思い通りに行かないことも中にはあるのはたしかである。