直接の生の声といっても、伝え聞いたことを代理で言うのであれば、間接の情報であることになる(二次情報であるから、変形されているかもしれない)

 妻に聞いてみたところ、疑惑に関わっているとは言っていない。安倍晋三首相は、国会での答弁でそのように述べていた。この発言は、改ざんされたと見られている公文書についてのやり取りの中でのものである。文書の中では、首相の夫人の名前が記されていたのがあり、夫人が疑惑に関わっていると見ることができるが、首相はそれを否定している。

 夫人の名前が文書の中に記されているのがあるのにもかかわらず、疑惑といっさい関わりがないのは明らかだ、と首相は言う。いっさい関わりがないというのはきちんと文書を解釈しているとは言いがたい。いささかおかしな誤読である。疑惑とされていることがらをあつかった文書の中に、夫人の名前が(否定の形ではなく)記されていたのであれば、そのことがらに関わっていたと見るのが筋であり、それを否定するのは無理筋である。

 文書に記されていることについてのやり取りをしているのだから、その内容の解釈のふさわしさを見て行くのがのぞましい。文書の内容のふさわしい解釈が優先されるべきであり、生身の夫人がどう言っているのかどうかはあまり関係がない。生身の夫人がどう言っているのかというのを首相は持ち出しているけど、唐突の感をまぬがれない。飛躍している。

 生身の夫人がどう言っているのかが優先されるのであれば、文書の内容はどうでもよいこととして軽んじられてしまいかねない。それはおかしな話である。生身の夫人が何を言うかは、気分が入りこむこともあるだろうし、確かなこととは言えそうにないのがある。悪い言い方だと、口からでまかせを言うこともできる。それよりかは、文書に記されていることのほうが確かであるだろう。

 妻に聞いてみたところこのようだった、と首相は言っているわけだけど、このことが本当のことであるのかどうかは疑わしい。本当は妻に聞いていないのにもかかわらず、妻に聞いてみたところと言っているのかもしれない。首相が夫人の言っていることをそのまま正しく伝言しているというきちんとした確証はない。

 文書よりも夫人の言っていることを優先してしまうのであれば、音声中心主義のようになるのがある。口から言う音声が、ほかのものよりも優先される。口からの直接の弁が真実をあらわすというものである。口から発する直接の弁により、真実が語られることもないではないだろうけど、それがほかのものよりも無条件で優先されるということはない。

 文書というのは、自分の意思をもっていないので、自分に都合よく中身を変えてしまうようなことはないものである。文書に記されていることをどう解釈するのかは人によってちがうのはあるわけだけど、文書が自分で文書の中身を変えてしまうということはない。ある人が文書の中身を自分の都合のよいようにあとで偽造することはある。

 音声中心主義のあり方をとるとして、本人が直接に口から語ったことがまぎれもなく真実かというと、そうとは言い切れそうにない。文書とはちがい、人間には自分の自己保存というのが関わってくる。自己保存として、自分を保ってゆくさいに、自分に都合のよいようにものごとをねじ曲げてしまうことがある。自己保存として自分を保つのに不利なことであれば、それをねじ曲げようとしてしまう。少しでも自分に有利なようにする。自分に執着しているとそのようなことがおきてくる。自分をつき放して、自分に不利なことであっても受け入れるというのはなかなかできづらい。

 認知の不協和がおきると、不快であるために、不協和を解消しようとする。不協和の解消のしかたとして、自分に都合のよいもののほうが受け入れやすい。自分にとって都合がよくのぞましいものは受け入れやすいが、それが正しいものであるとは限らないのがある。自分がもつ信念志向性が、世界にそのまま反映されるわけではない。世界によってこばまれることがある。自分が世界の中心にいるわけではないためである。

 自分の信念志向性があるとして、それが世界とは必ずしもそぐわないことがある。世界のほうが正しくて、自分がまちがっているおそれがある。自分がまちがっているのだとしたら、まちがっているあり方を修正できればのぞましい。修正するのは補正することだけど、補正することができなくて、自分の信念志向性を補強してしまうのだとまずい。世界とのあいだのずれが大きくなってしまう。世界のほうが折れてくれるとは考えづらい。自分が曲がらないで、世界のほうが折れてくれるとするのは、誇大妄想(被害妄想)であり、ゆくゆくは自分がへし折られるおそれが低くない。

 自分の信念志向性による合理性があるとして、その合理性は基礎づけられないものであり、不確かであるのをまぬがれない。不確かであるのではなく、まちがいなく確かであるとして合理性を基礎づけてしまうと、独断と偏見におちいるようになる。独断と偏見におちいってしまうのは、自分の信念志向性による合理性をまちがいなく確かなものだとして基礎づけていることによる。その基礎づけは前提であり、その前提を疑うことができる。前提が確かでなければ結論もまた確かではなくなるから、結論としての主張を改めて見直すことがいる。改めて主張を見直してみて、修正ができればのぞましい。補強を止めて、補正ができればよい。

 自分の信念志向性と世界の二つは、お互いに相関しているものと見なせる。この二つが分裂してしまうと、反社会のようになってしまいかねない。二つは相互に関係し合っているのがあり、分裂しないようにできればのぞましい。分裂してしまうと、孤立して、疎外になり、狂ってしまいかねない。疎外になると、疎外論がとられて、専制のあり方となる。専制のあり方による個の信念志向性は、世界からしりぞけられることがある。受け入れられない。分裂するのではなくて、お互いに(または一方が)歩み寄れるようであれば、ぶつかり合うのを避けられそうだ。