最終かつ不可逆として、ふたたびあと戻りすることの禁止と、それの許容(不回帰と回帰)

 最終かつ不可逆な解決を確認する。これが、日本と韓国とのあいだの、従軍慰安婦をめぐる合意の精神である。日本政府はこのように述べている。合意の精神ということで、そこに精神論を持ち出すとしても、はたしてそれでうまく行くのかといえば、それはちょっと考えづらい。

 最終かつ不可逆な解決をするためには、何らかの条件がないとならない。そのように見なせるのではないか。その条件を満たせれば、最終かつ不可逆な解決となる。しかし、条件が満たせていないのであれば、最終かつ不可逆な解決にはならない。必要条件が満たせているとしても、十分条件とは必ずしもいえないのがある。

 最終かつ不可逆な解決とは、ふたたび元には戻らないことをあらわす。これは、改めて見ると、そうとうに高い目標だということができる。目標が高すぎると失敗するおそれが高い。日本にとってはそれほど高くはないかもしれないが、韓国にとってはそうとう高いということができる。

 ふたたびそのことについてを持ち出さないようにする。これは、ふたたび持ち出すのを禁止をしているとすることができる。この禁止が功を奏するのかどうかがある。功を奏さないこともある。禁止というのは一つの暴力であり、それを侵犯する新たな暴力をもたらしかねない。抑圧からの反動を呼びおこしてしまう。

 合意を構築した。それについて、脱構築がおきる。そのようなふうになってしまうのがありそうだ。合意とは主体どうしの契約であるとできる。その契約は、前の主体(政権)が行なったものだとすると、そこに一つのずれがある。契約として見ると、主体がそれを決めてとり結んだものであるから、それと同じ理屈として、主体がそれを解くこともできてしまう。主体は意思決定の最終単位であることから、そのように見なすこともできなくはない。主体のもつ危なさである。

 自由民主党菅義偉官房長官は、合意は一ミリメートルも動かない、と述べている。日本としてはそのような主張をすることになる。そのいっぽうで、韓国としてみると、日本にとっての合意とはややちがっているあり方になっているかもしれない。

 日本としては、合意は一ミリメートルも動かないとしているわけだけど、韓国においては、韓国の理は動く。前の政権のときの理から、今の政権の理は動いているわけだ。この理が、合意に意味づけするものだということができそうだ。理が動くことで、合意の意味づけもまた変わってくる。

 日本の理と、韓国の理とは、どちらが正しいものなのか。それは、絶対ではなく相対によるものだと見なせる。というのも、二つの理を比較したときに相対として正しさが決まるからである。韓国においても、前の政権の理と今の政権の理を比較することで、相対として今の政権の理にやや分がある、といったようなことになっていそうだ(もし分があるとすれば)。

 日本としては、合意にもとづいて、最終かつ不可逆の解決に向かうべく、韓国がそれを実行することを求める。そうして合意の着実な履行をせよということなわけだけど、これについて、認識と行動の二つの次元に分けられそうだ。認識と行動について、いくつかの場合をあげられる。わかっていなくて、行動もしないのが一つにはある。わかってはいるけど、行動ができないのがある。わかってはいないけど、行動ができるのもある。わかっていて、なおかつ行動もできるのがある。

 日本が合意について認識していることと、韓国が認識していることとで、ずれが生じていそうだ。認識の次元で一致していないのがある。なので、行動の次元について、それぞれがちがった見かたをとっているのがありそうだ。日本としても、日本がよしとする合意の精神を、韓国はわかっていないとしている。であるのなら、行動の次元をのぞむのよりも、まずは認識の次元でお互いにすり合わせを行なうのがよいのではないか。認識の次元でお互いに一致していないのなら、行動の次元で日本がのぞむようなことを韓国が行なってくれるのは見こみがかなりうすい。

 認識については、合意をきちんと果たすのは必須であるとしても、合意についての受けとり方は任意なのがある。どのように受けとるのがふさわしいのかは、お互いに不確実さがある。日本が確実にこうだろうとしていることと、韓国が確実にこうだろうとしていることのあいだに、ずれがあると見なせる。なので、合意をきちんと果たすのは必須であるといくら言ったとしても、それとは別に、受けとり方は任意であり、自由の余地があるのはたしかだ。合意という文書の内容と、それをとりまく文脈とにおいて、色々な解釈がもてる。そこが両者にとってやっかいなところだろう。