タイキックと攻撃性

 みそぎのタイキックを受ける。それが一部で物議をかもしている。年末のバラエティ番組の中で、タレントのベッキーさんはしかけ人として出演した中で、逆ドッキリをしかけられた。これはいわばサプライズみたいなものである。それで、不倫報道により非難されたことのみそぎとして、女性の格闘の選手からお尻にタイキックを見舞われた。

 番組の中でタイキックを受けたことについて、感謝しているとベッキーさんはラジオで語ったという。これはあらためて見るとちょっとおかしい気がしないでもない。お尻にタイキックを受けて感謝するのは、はたしてまともな受けとり方なのだろうか。

 不意打ちということで、タイキックを受けることがわかったさいに、それに強く抵抗と拒否の意を示す。この抵抗と拒否の意は、番組を盛り上げるための、そのときのまわりの状況や空気を読んでの反応だったのがありそうだ。それとは別に、ふつうであればいきなりタイキックを受けることになったら嫌がるのは自然である。キックされたら痛いからである。見せしめみたいにもなってしまう。

 ベッキーさんは、ラジオにおいて、タレントとしてありがたい、との感謝の言葉を述べている。これを見てみると、タレントとしてということだから、裏を返せば、タレントではない一個人(私人)としてはありがたくないと思っているかもしれない。また、タレントとしてありがたいとは言っているわけだけど、これは本心というわけではなく、本当の気持ちを隠すための修辞(レトリック)であるおそれもないではない。心の中を勘ぐってしまうようではあるが。

 みそぎとしてタイキックを受けたのは、慣習の中でのものだと見なせる。これをよしとするのであれば、特に違和感がないものだろう。しかし、慣習それ自体がおかしいのだとすれば、みそぎとしてタイキックを受けることもまたおかしい。それを反省するのがあってもよさそうだ。そうしたのがないと、おかしいことが引きつづいてしまうし、引きつづいてしまうことに加担してしまうことになる。

 タイキックを受ける人と受けない人がいるのは公平ではないし、タイキックを受けていない人に問題がないわけでもない。見当はずれな人にタイキックをしている。番組内で笑ったらアウトとなってタイキックを受ける以前に、タイキックなどの体罰の企画をよしとすること自体がアウトなのではないかとも言えそうだ。

 すぐになくせとかただちに止めろというのではないとしても、あり方をまるまる肯定してしまうのはどうなのかというのがある。じっさいによしとするのかしないのかというよりも、よしとするのかしないのかについてを立ち止まって改めてみなで見てゆくことに多少の効用があると思うのだ。そうした効用をとるのであれば、言いがかりをつけるのがあってもよいし、(そのまま何ごともなかったようにして進んでいってしまうのに対して)腰を折るのがあってもよい。たまには腰が折られるべきである。

 一見すると言いがかりをつけるのは効用を損なうように受けとれるが、それがまったく不合理なものでないかぎりは、むしろ歓迎されるものとも見なせる。最低限の合理性をもったものであれば、改めて見ることのきっかけとなるからである。言いがかりにもよいものと悪いものがある。悪いものだとして一般化するのは性急だ。かりに悪い動機から言いがかりをしたとしても、結果としてよく転ぶこともないではない。全部がそうだというわけではないし、存在を否定してしまうようなのでは場合によってはまずいが。強くつっかかるのとは別に、試しに反論や反ばくを投げかけてみるのが少しはあってもよさそうだ。タイキックであれば、それをすることへの確証(肯定)にたいする反証(否定)もできればよい。