子どもと大人の分類点の揺らぎ

 学校で、小学生が教師の言うことを聞かない。その小学生は、学年が二年生くらいであるという。そうした子どもたちに教師は手を焼いている。いくら低学年の小学生といえども、教師が被害を受けているとすると、これは犯罪行為ではないのか。教師がそれに黙って耐え忍ぶのはまことに気の毒である。

 低学年の小学生だと、犯罪行為が成り立つのかどうかの点がやっかいである。犯罪というと大げさかもしれないけど、教師に暴力を振るうとして、それが犯罪だという自覚がないのがある。低学年の小学生には、行動制御能力と事理弁識能力がしっかりとはのぞめそうにない。そこが大人とちがう点である。

 自分の言動を制御するのが行動制御能力であるそうだ。善悪や周りの状況を判断するのが事理弁識能力だとされる。大人であれば、こうした判断力がきくところがある。精神分析学で超自我といわれるものだろう。そこからの、これはすべきではないという禁じる要求が内側ではたらく。そうはいっても、超自我よりも自我や欲動の力のほうが上まわってしまうこともときにはある。

 低学年の小学生が教師に暴力なんかをふるうのであれば、それはのぞましくはない。この問題を何とかのぞましい形で解決することができればさいわいだ。

 話はちょっと変わってしまうけど、はたして子どもにはわきまえがなく、大人にはわきまえがあるのかというと、必ずしもそうとばかりは言えそうにない。わきまえのない子どもには手を焼いてしまうが、どうしようもないくらいにひどいかといえば、そこまでは言えないものである。

 思想家のトマス・ホッブズは子どもについてこのように言っているという。子どもというのは理性の自由をもたない。なので無害である。義務を負ってはいない。罪もないし悪もないという。

 子どもには罪もないし悪もないというが、では悪人とは何か。それについて、ホッブズはこのように言っているという。それは、強壮になった子どもである。子どものような大人だ。形式(見た目)としては大人であっても、実質(中身)は子どもだというわけだろう。

 ホッブズは強壮になった子どもを悪人としている。それは子どものような大人であるという。それに加えて、大きな子どもというのもある。この大きな子どもというのは揶揄(やゆ)なわけだけど、それは、このような人物であるという。価値判断に合理の基礎づけを与えられると信じる者をさす。一つの価値判断による考えを絶対だとしてしまうようなあり方である。一つの文脈だけを中心化してよしとする。独断におちいってしまう。これが大きな子どもだというのである。

 子どものような大人や大きな子どもだとして、それでもけっこうだ。そうした見かたもとれなくはない。開き直ってしまうようなあんばいだ。こうした開き直りもできなくはないわけだけど、いっぽうで、そうしたあり方こそが、子どものような大人や大きな子どもであるのを証してしまっているとも言えてしまう。

 開き直るのとは別に、否認するというのもある。そうして否認するのではなく認められればよさそうだ。そうして(負の面を)認めるのは自己非難をすることでもあるから、難しいこともあるだろうけど。頭に血がのぼっているときは難しいだろうけど、気持ちにゆとりがあるときにはできやすいだろう。

 全体をまるごと否定するのだと、一か〇かであり、価値判断を合理で基礎づけすることになりかねない。そうして白か黒かとしてしまうのではなく、灰色であることをとる。そのようにできれば、大きな子どもではないあり方がとれる。白であるとしてむりやりに押し通してしまうのではなく、かといって黒であるとして自罰になりすぎるのでもない。非は非として認めるといったことができればよい。全人格や総体としてではなく、あくまでも過去の行動について非があったということだ(非があったとしたらの話ではあるが)。

 きちんと言うことを聞かないで教師に暴行をする低学年の小学生は、何とかしないとならない。そうしたのに加えて、子どものような大人や大きな子どもをどうするのか。けっして人ごとではないのはあるのだけど、これもまた頭を悩ませてしまうような社会にとっての死活問題であると言えそうだ。