元慰安婦の人たちが被害者であり弱者に当たるのをくみ入れないとならないのがありそうだ

 慰安婦像を設置するかどうか。それについての公聴会が、アメリカのサンフランシスコ市で開かれた。そのさい、日本人の参加者も公聴会にまねかれたという。その人は、従軍慰安婦はすべてねつ造だとして、元慰安婦は嘘の証言をしていると言ったそうだ。

 最大限の愛情と尊敬をこめて言いますが、恥を知ってください。出席者の一人は、日本人の出席者の発言にたいしてこのように述べた。この出席者はカンポス委員という人だそうだ。そうしてみると、日本人の出席者の発言は逆効果にはたらいたことになる。かえって印象を悪くしてしまった。自分が正しいと見なしていることを発言したのはたしかだろうけど。

 何にたいして恥を知るべきなのかというと、過去におきたことを否定する自分たちにたいしてである。それにくわえて、勇気をもって証言をしにきてくれた人を、個人として攻撃することにたいしてである。カンポス委員はそのように述べていた。

 アメリカで最大の放送網をもつとされる CBS は、像を建てるのに日本が抗議してきたことに報道の中で触れたという。ほかに、ワシントン・ポスト紙やイギリスのインデペンデント紙やロイターも記事にしたそうだ。

 日本政府が怒れば怒るほど慰安婦像は拡散する。像に固執するほど、かえって世界の平和活動家を刺激してしまう。ワシントン・ポスト紙の記事では、このような分析の見かたが示されている。

 もともとサンフランシスコ市は、必ずしもはじめから像を建てるのをよしとしていたわけではないという。日本や大阪市の立場にも理解を示していた。それが変わったのは、日本の側からの抗議が一つのきっかけと見ることができそうだ。

 像を設置するかどうかを話し合う公聴会の場において、どのようなふうにのぞめばよかったのか。それをふり返られるとすれば、一つには、それを交渉の場としてとらえるのがあげられる。交渉として見たら、意見がぶつかり合っている中でこちらの言い分がまるまるすべて聞き入れられるとは考えづらい。半分以下と考えるのが妥当だ。そうだとすれば、こちらの言い分がほんの少しでも聞き入れられるのをもってしてよしとすることもできたのではないか。白か黒かといったことではないあり方である。

 最後にはどういう帰結になるのかとして、そこから逆算できればよかったのがありそうだ。それによってどういう発言をしたらよいのかを決める。いろいろな帰結の可能性をふまえて、どれをいちばん避けたいのかとか、どれくらいなら受け入れられるのかを見てゆく。〇点がいちばん悪いとして、それをできるだけ避けるようにする。一〇〇点はのぞみすぎなのがあり、点数そのものは低くても、一点でも多い結果を目ざす。

 公聴会をかりに交渉の場として見ることができるとするなら、そこで相手を怒らせるのはまずい。こちらがうわ手からものを言うのではなくて、下手下手に出てゆく。そのようにして、できるだけ相手と敵対しないように気を配るようにする。敵対してしまうと相手がこちらの意をくんでくれるのを期待できない。

 動機と結果として、二つの事項に分ける視点をもてる。動機がどうであるかとは別に、結果がどう出るかを見ることができる。それに、内面の動機といっても、自分で意識できるのだけではなく、さらにその奥にある無意識も見てゆくことができる。無意識をふまえると、動機のよさや純粋さがぐらつくことはたしかだ。力への意志にすぎない。

 議論として見ると、こちらがたとえ正しいことだとしている内容であっても、それをきちんと支えるような根拠を示さないとならない。そして、主張がきちんとした根拠で支えられているのかを決めるのは、受け手である。受け手の判断しだいというところがある。

 根拠を固定化させないで見ることができる。固定化させないとすれば、別の根拠をもってきたときにはまた別の答えが出てくることになる。この複数性をふまえると、一つの根拠で一つの答えが言えるとしても、それは限定されたものにすぎない。絶対的なものではないわけだ。仮説の性格をまぬがれない。

 こちらが正しいとしていることを言うのはよいわけだけど、それはあくまでも人称でいうと一人称に立っている。それだけだと十分ではない。それにくわえて、直接の相手である二人称についてや、間接の相手である三人称についても考慮に入れる。それらを総合して、つり合いをとったうえで発言できればよかったのがありそうだ。

 従軍慰安婦はねつ造であり、元慰安婦の人は嘘の証言をしている。こうしたのは、客観というよりは、主観による推論といえる。この推論では、発言者を否定しているところがあり、対人論法となっていると見なせる。陰謀理論におちいってもいる。このようになるのを避けて、従軍慰安婦(戦時性暴力被害者)について、部分的にここがちがうだとか、ここは受け入れられないだとかすればよかったのではないか。ここについては誇張されているおそれがある、なんていうふうにする。動かない事実と、動く事実を、整理することができていればよかったのがありそうだ。