頭が乏しいと言ってしまうと、欠如モデルになってしまいそうだ

 今回の解散と選挙には、意義が乏しい。そのように野党の一部は言っているが、それは頭が乏しいからだ。公明党山口那津男代表は、演説の中でこのように述べていたという。

 頭が乏しいと言ってしまうのはどうなのだろう。一部の野党にたいして言っているのだろうけど、その背後には有権者がいるのもたしかだ。そこへの配慮にやや乏しいと言わざるをえない。

 もし意義があるのなら、その意義を説明できるはずである。そうではなく、頭が乏しいとして対人論法にもっていってしまうのは、あまりきちんとした反論にはなっていない。意義が乏しいことを間接的に証明してしまっているのではないか。

 批評家の東浩紀氏は、今回の選挙について批判を投げかけている。600億円をかけてまでして、やるだけの意義が見い出しづらい。そのため、積極的棄権として、投票しないことを表明している。選挙後には、国会議員へ署名をわたす予定だという。今回のような不毛な選挙がふたたび行なわれないようにするための要請だ。

 積極的棄権も悪くはないかもしれないが、棄権するのをすすめてしまうきらいがあるのがちょっと賛同できない。棄権をしても別によいわけだけど、それであるのなら白紙投票する手がある。これなら棄権をしないでもすむ。政治家に投票意思があることを示すことができるので、まったく意味がないとはいえない。しかし、動機づけがつきづらいのはあるかもしれない。

 もし批判をするとして、どこへその矛先を向ければよいのかといえば、まずはそれは与党の長にだろう。今回の解散と選挙をするのを決めたのは、自然にそうなったのだとか、誰の責任でもなく降って湧いたのだとかと見なすことはできそうにない。(決定が)ふいを突いたために、態勢をつくるのに各党は大わらわとなっている。落ち着いて選択するようなおぜん立てができているとはちょっと見なしづらい。