帰属による同一性だけではなく、個性が発揮されるのがあってもよい(帰属があって個性がないよりかはよいかも)

 戸籍の公開を求める。二重国籍の疑いが完全に払しょくされていないとして、民進党蓮舫代表に、一部からの疑いの目が向けられている。蓮舫代表は、その求めに応じるかまえも見せている。

 蓮舫代表の説明によれば、自分で法務省に出向いて行って、そこでしかるべき手続きをすませてあるという。法務省は国の機関なわけだから、さすがにそこが関わることについて嘘をついているおそれは高くない。そのように見ることができるのではないか。自分ひとりでの内部の何かであれば、嘘をつくこともありえるわけだけど。

 国籍においては、国が関わっているものなわけだけど、国とは実在しているものなのか。実在していると見なすありかたもあるが、そうではなく、擬制(ロールプレイ)であるとも言える。国は法人であり、法人は擬制であるとする説があるそうである。そうしてみると、国籍とは何か手でさわれるような触知可能(タンジブル)なものとは言えそうにない。虚構のものである。

 共同幻想であり、虚構であると言い切ってしまうと、反感を買うおそれがある。そのおそれはあるが、かりにそうであるとして、国籍は帰属点(役割)であると見なすことができそうだ。それ自体に何か大きな意味があるとは言えそうにない。仏教でいえば、空であるともいえる。本質といったものはない。

 帰属のいかんにとくに焦点を当てることもできるわけだけど、ほかの別な何かにも当てることができる。たとえば文化だったり言葉だったりをしっかりと身につけているだとか、そうした内実である。内実があるのであれば、それでとりあえずはこと足れりとすることもできる。

 その国の政治家として、政治活動をやってゆく。そのように本人が言っているのであれば、いちおうそれを信じることができる(疑うこともできるわけだけど)。これはスポーツでいえば、味方チームの一員になるとするのに等しい。野球やサッカーなんかでも、ちがう国の人(または元ちがう国だった人)が味方チームの一員として活躍したり貢献したりすれば、それは味方チームの加点につながる。ちがう国の人が監督として、味方チームを導いてゆくこともありえる。

 たとえちがう国の国籍をもっていたからといって、それによってレッテルを貼ることは必ずしもいらないものだろう。そのようにレッテルを貼ってしまうと、公平になりづらい。選択的賞罰(セレクティブ・サンクション)を与えることにつながりかねないところがある。そこは選択的(恣意的)にではなく、ほかの人と同じようにして、よい活動をすれば認めればよいし、よくない活動をすれば批判をすればよい。その評価のしかたは、ほかの政治活動をしている人よりもとくに厳しくするのではなく、またとくに甘くするのでもない。そのようにできればよいのではないか。

 日本ならではみたいなのを強調することもできるわけだが、それとは別に、たんに人間であるといったので見ることもできる。日本ならではの立場に立ってしまうと、日本のためになるかそれともならないかだとか、日本にふさわしいかどうか、といったふうに見なすことになる。日本の国の枠組みも大事なものではあるが、そのいっぽうで、観念であり記号であるにすぎないものでもある。

 日本の今のありかたにどうもしっくりこなかったり、適していないと見なされてしまったりするような、不遇な境遇の人もありえる。そうした多数派でない、日の目を見づらい人たちへ目を向けるためには、(日本かくあるべしといったのではなく)たんに人間であるとする視点が少なからず役立つ。そうしたわけで、日本の国としての枠組みにこだわらないで、たまにはそれを外すことがあってもよさそうだ。人間はみな同じであり、それは個人の尊重の一側面となる。その一面が軽んじられないようであればさいわいだ。