かりに獣医学部をどんどん新設するにしても、日本獣医師会の意見をまっこうから否定したり、まったく反論に耳を貸さなかったりするのは、おかしい気がする

 あきらかに、政権にたいする抵抗勢力ではないか。自由民主党菅義偉官房長官は、会見でそのように述べた。抵抗勢力と見なされたのは、日本獣医師会の人たちである。政権は獣医学部をどんどん新設することを新たに目ざし出したが、日本獣医師会はこれに釘をさしている。

 政権にとって日本獣医師会抵抗勢力にあたるようだ。この日本獣医師会は、官僚組織にも置き換えることができそうだと感じた。あくまでも素人から見たことにすぎないのだけど、おそらく日本獣医師会のほうが、専門的に活動しているだけに、獣医の分野の実態をより詳しくとらえられていそうだ。これは、政治家よりも官僚のほうが、何かの問題についての情報量を多くもっていることが少なくないことに少し似ている。

 政権がやろうとしていることについて、抵抗してくる勢力だ、と見なしてこと足れりとするのでよいものだろうか。そこが疑問である。肝心なのは、政権がやろうとしていることである、獣医を増やすか、それともそれを押しとどめるか、だけではない。それとは別に、まず一つの規則として、できるだけ嘘をつかないことがいる。話し合いの過程で嘘をついてまでして、そこまでしてもやらなければならないことなのだろうか。

 話し合いの過程での嘘とは、たとえば不正確な引用があげられる。相手側が言ってもいないことをでっち上げてしまったり、またはねじ曲げてとりあげてしまう。そうした不正確な引用は、ふいにやってしまっていても駄目だし、ましてや意図してやっているのであれば、ごう慢であると言わざるをえない。政権は、日本獣医師会が言ったことや思っていることを、勝手に自分たちに都合のよいようにとりあげてはならない。日本獣医師会も、政権のことをねじ曲げないようにする。

 たんなる既得権益にすぎないのであれば、それを改めることがいるのはたしかである。それはたしかにあることは言えるけど、そのいっぽうで、ことわざでは餅は餅屋とも言われる。獣医の分野については、政権は餅屋ではない。そこは日本獣医師会のほうが餅屋に近いだろう。ゆえに、餅屋(に近いもの)からの意見をまっこうから否定してしまうのは合理的とは言いがたい。

 たとえ餅屋だからといっても、認識や判断にまちがいがないかといえば、そうとも言い切れないこともたしかである。視野が狭くなっていることはありえる。その危険性はあるにしても、だからといって頭ごなしに切って捨ててしまうのはいかがなものだろうか。頭ごなしに切って捨ててしまうようであれば、一歩まちがえると、恐怖政治のようにもなりかねない。はやばやと相手を見切ってしまうのではなく、いったんは相手の文脈にすり合わせるようにして、それから決断を下すのでも遅くはない。そうしたほうが、自分たちの文脈に凝り固まってしまうよりかは、まちがいが少ないのではないかという気がする。

 二つの文脈があるとして、どちらかが正しくどちらかがまちがっていると見なす。そうしてしまうと、きつい見かたになる。摩擦がおきてくる。これは白か黒かの単純弁証法のようなありかただ。敵か味方かみたいにして、相互敵対状態をまねく。悪く言えば、こうした敵対状態は、いわばなぐり合いのようなものである。物象化してしまっている。

 きついのではなくて、ゆるい見かたをとることもできる。ゆるい見かたのほうが摩擦が少ない。いたずらにぶつかり合ってしまうことを防げる。もしできるのであれば、摩擦が少ないやりかたのほうがのぞましい。あとは、むやみに相手を屈服しようとするのではなく、対立点があるのであれば、それを明らかにして、開かれたところで論じ合うようにできればよさそうだ。

 文脈どうしがおたがいに不毛にぶつかり合ってしまうのは、いっぽうの相手を不浄なものと見なすことによる。そうして不浄と見なすのではなく、けがれくらいにとどめておくのがよい。けがれと言っても、それは必ずしも否定的なものではないそうだ。それは否定的媒介または否定的契機であり、そうしたものを抑圧したり抹消したりしてしまわないで、創造を高めるために活かす。