対話における生起確率と不確実性(既知と未知)

 対話によって友好を築く。そうしたことをよしとするのであれば、じっさいに現地へおもむいて、こじれてしまった自他の関係を直してくるべきである。対話することで関係の悪化を解決してくるわけである。これができないようであれば、言っていることに説得力がないではないか。

 対話というのは、お互いに文脈を同じくするもの同士であればやりやすいが、それを異にするもの同士ではむずかしい。言葉もちがえば文化もちがう。そこには通約不可能性がある。まずはそれがあることに耐えないとならない。耐えられずに簡単に放棄してしまうようだと、なかなか話し合うということもできづらそうである。

 ひとつこれは言えるのではないかという点は、対話で友好を築くのをよしとするのは、そういった価値の意識の表明であることがいえる。この表明というのは、表現の自由として見なすことができるものであり、とくに公共の福祉に反するものであるとはいえそうにない。なので、そこはとくに問題があるわけではなさそうだ。

 対話に価値をおく意識を表明するのは、それ自体ではとくに悪いことでもないし、許されてしかるべきである。全面的に受け入れられるかはともかくとしても。そこからつなげて、じっさいに対話の力によって、こじれた関係を解決してくることがいるのだろうか。かりにもしそれをやってくるにせよ、それはあくまでも自発的なものであるのがよいのではないか。そうではなく、他発的なものであれば、他から動かされてしまっていることにほかならない。これはあまりのぞましいありかたではないだろう。

 他発的であるというのは、他の誰かから、それをやれというふうに命じられて、強いられてやることである。そういうありかたはできれば避けたいところである。そうはいっても、世の中におけるものごとが、何でもかんでも自分の意思から発して行われるものではないから、命じられたり強いられたとしても、しかたがないところもあるかもしれない。

 そうした他発的な部分については、気づかぬうちの、権力による自発的服従なんかがからんでくるところだろう。そうした部分をいきなりゼロにすることはできないわけだが、できるかぎり自発的(スポンティニアス)なふうにものごとが行なわれてゆくようにできたらのぞましい。対話というのは、そうしたことの延長線上にあるものとしてとらえることもできる。誰かから言われて、しぶしぶやらせられるのではなく、あくまでも自分がやりたいからやるといったようなあんばいだ。

 現実ではなくてまるで夢みたいな、すごく都合のよい言い訳を言ってしまっているかもしれない。そのうえで、あまり確固とした目的を持ってというよりは、もうちょっとファジーというか、試みみたいなふうにしてやるのもありだろう。使命みたいなのを背負ってしまうと、腰が重くなってしまうから、それは避けたいところだ。企てを持ちはしても、それをあまり強調せずに、柔軟性をもてればさいわいだ。

 苦しみをもたらすものよりも、楽しみをもたらすようなふうにできたらよい。思想家のシャルル・フーリエは、社会主義をふまえるさいに、楽しい労働というありかたを説いたそうである。ここでいわれる楽しさとは、何かと何かを引きつけるような引力をさす。引きつけるはたらきだ。こうした引力がはたらくことで、身体感情が充実してくる。恋愛において、お互いがうまく溶け合うような、そういったありさまにも通ずる。こうした楽しさがあれば、対話もうまくゆくのではないか。

 じっさいの社会のなかでは、楽しい労働であるよりは、むしろ労苦であるほうがふさわしいことが多そうだ。なぜ労苦になってしまうのかといえば、それは一つには、生産があまりにも中心になりすぎているからだといえる。物を作るということの一元論に傾きすぎている。したがって、そのありかたを多少なりとも改めてゆくことがいる。そのさい、実体であるよりも関係を重んじてゆくこともできるだろう。関係を重んじることによって、自他のありかたが揺らいで傾いてゆく。主体どうしがおたがいにぶつかり合うのではなく、場所的な関わり合いができるようになるのではないか。うまくゆけばの話ではあるが。

 フーリエは、コンポートというのをとても愛好したようである。これは果物の砂糖煮のことであるという。むかしは砂糖が貴重品だったから、ふんだんにありふれていたわけではなく、今と比べると日常的に口にするわけにはゆかなかったのだろう。それにくわえて、果物と砂糖という 2つのものの組み合わせで、単体のときよりもよりよいものができあがるのもある。

 果物だけでも、また砂糖だけでも、それ単体としてのよさはあるわけだけど、2つが 1つになることで、そこには相互作用がはたらくことがのぞめる。これが分裂してしまうようだとよいほうには転がりそうにない。なので、分裂させてしまうのではなく、コンポート的にうまく 2つをかけ合わせることができればよいのだろう。そうそううまくゆくことではないかもしれないが。

 このコンポート的なありかたは、音楽でいうと、単音ではなくて、和音によるようなものだろう。あまり音楽にくわしくないので、的はずれになってしまうかもしれないが、和音というのは、ちがったものどうしが重なり合うことによる響きであるとされる。これは、正と反がおきることで合にいたるという、弁証法の流れにも近いかもしれない。そこでは、1つではなく 2つ(以上)であることと、それが異なるもの同士でありながら分裂していないというのが味噌なのだろう。うまく位相が合うといったらよいだろうか、そのようになる可能性はゼロではなさそうだ。