ウェブに真実の情報は転がっているのか

 報道機関がなにか事実でないことを吹聴する。しかし今の時代には、ウェブがある。そこには、報道機関が流した事実でない嘘八百の記事を見破ることができる貴重な情報がいくらでも転がっている。こうした見かたがある。この見かたは、ちょっと素朴すぎやしないかという気がする。

 たしかに、大手の(または中小の)報道機関というのは、何かよこしまな企みをもっている可能性がゼロではない。純情な受け手をたぶらかそうとするような記事をたれ流す。そうしたうらみがなくはないだろう。しかし、ではウェブはどうなのかというと、そこにある情報もまた眉につばをつけて見たほうがよい。ただ、こんなことは、何もあえて言わずとも、すでに分かりきったことであるのはたしかである。何の新しみもないから、意味もとくにないし、心に響くものでもない。

 ウェブにある情報というのは、ある面で言えば、手軽に得ることができるものである。検索などをかけたりすることで、知りたいことが気軽に手に入る。そうした手軽さがかえって危ないのかもしれない。軽信することにつながってしまう。

 嘘か真かといったように、はっきりと 2つに分けづらい。単純ではないふうである。そうではなくて、はっきりと 2つに分けられるとしてしまうと、報道機関による記事はたいてい嘘でたらめであり、それを見破る材料がウェブにある、という発想につながるのかも。じっさいに、そうした発想が功を奏することもあるだろう。ただ、逆の場合もあることも無視できそうにない。

 ウェブの情報がまちがっていて、報道機関の流す記事が正しいことも、なかにはある。ウェブのほうが、条件的に言えば、嘘をたれ流しやすい。なので、どちらがより正確か不正確かの点は、ケース・バイ・ケースであり、決めつけられないところなのだろう。

 報道機関が流す情報も、それほど悪いものではない(ものにもよるだろうけど)。ただ、振り返って見ると、昔においては、新聞がありがたいものとして奉られていたのがあったみたい。それが、戦時中の大本営発表なんかにつながってしまった要因の 1つでもあるのだろう。だから、奉ってしまうのはやりすぎである。しかし、かといって逆に軽べつしきってしまうのもまた行きすぎになりかねない。新聞は(ときどきは)報道を誤るものだろうし、そこに確実な真実があるわけではない。もともとがそういうものだとして、あまりかくあるべしという規範を当てはめないようにできればよい。

 ゲーテは、詩と真実ということを言ったそうである。何か自分が本当のことを語ろうとすると、そこには詩または詩情(ポエジー)というのが欠かせない。回転扉がくるくると回るように、その 2つは分かちがたく結びつく。そういう意味なのだそうである。そこには、本当のことと、嘘である虚構とが、相互関連性をもって関わり合うありようが見てとれる。両極性(ポラリテート)があることをあらわす。本当の話とは、本当のことではない。そのような禅問答みたいなふうでもあるだろうか。

 真実だけを追い求めんとして、それを純粋に抽出してとり出す。そのようにして語るのだと、あまりに散文的になりすぎてしまい、人間的ではなくなってしまう。逆説がはたらく。人間の尺度を超えた、自然史的な原事実というのもある。なので、何らかの潤いみたいなのが入りこむことは、あるていどはやむを得ないのだろう。この潤いというのは、ようするに不純であるということなわけだけど。

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