信頼の分断

 信頼にかんしてのムラがおきている。これは、政権与党である自由民主党についてのことである。自民党にたいして信頼している人は少なからずいて、支持率もそれなりに高い。自民党は、そうした信頼してくれている人にたいしておもに顔を向けている。そこのあいだの信頼の構築(ラポール)はうまく行っているのだろう。

 いっぽうで、信頼についてのムラがあるわけで、それは分断があることを示す。自民党にたいして根強い不信感をもっている人もいるわけだ。そういう人たちにたいするきちんとした説明が自民党の側からなされているとは言えない。放っておかれてしまっているような気がする。

 そんなこと言っても、そもそもが、いちいちきちんと説明や釈明をする必要はまったくない。何もまちがったことはしていなく、非もないのだから。だいたい、きちんと説明や釈明をしたところで、それをまともに受けとってくれないかもしれないではないか。だから、まともに説明や釈明をする意欲や動機(モチベーション)がわかないとしてもそれは分からないでもないことなのだ。そうした声もあるかもしれない。

 そのように、ある種開き直ってしまうような、あきらめてしまうようなことだと、ちがう者との対話がおきづらい。対話といったって、そんなに生やさしいものではなく、そこにはどろどろとした情動がどうしてもからむ。めんどうなのはたしかにそうなのだけど、だからといってそれをいつもいつも避けてばかりいたら、通訳(共約)可能なものどうしで分かり合うことにしかならない。ようするに、独り言を言っているに等しくなってしまう。

 もし自民党が、通訳可能なものにではなく、通訳不可能なものにも向き合うように少しでも気を向けてくれたらさいわいだ。そこへ気を向ける労力のゆとりがもしあれば、そうしてほしい。そうでないと、たとえばある不祥事がおきたとして、それを都合のよいようにもみ消してしまうようになりかねない。それは、社会関係として見ると、ふさわしい対処の仕方であるとはいえそうにない面がある。

 自分たちのもっている価値を下げたくないばかりに、それを守ろうとして保身に走ってしまう。こうなってしまうと、現実の問題をまともに解決するためには有効でなくなるおそれがある。問題となることが再びおきないように防止するためにも、あるていど自分たちの価値が下がるのをいとわないような姿勢をとることがいる。持たざる者へ多少はゆずりわたすことがいる。そうしないと、不信をもっている人からの信頼を得ることはできづらい。

 信頼についての分断がおきてしまっているのは、そもそもが、不信感をもつ方こそがむしろまちがっているのだ、とする見なし方からきている面もありそうだ。たしかに、人の心理としては、何か悪いことが少しでもあると、それをすぐに一般化(部分の性急な一般化)してしまうきらいがある。ただそれはあくまでも一般的な心理の傾向としてあるものでもある。なので、けっきょくはみなに当てはまってしまう傾向なのだから、正しいとかまちがいとかはあまり言えなくなる。程度の問題にすぎない。

 信頼をもってくれて支持してくれる人にたいしてはよいだろうけど、そうでない人には、上意下達のやり方は通じづらい。この上意下達のやり方は、自己宣伝(プロパガンダ)のようなものである。その宣伝を聞き入れてくれる人だけでなく、こばむ人もいる。そのこばむ人にもそれなりの理由というものがあるかもしれないわけだから、そこを受け入れてくれないと、議論にならない。反対意見を封じてしまいかねない。これは行きすぎるようだと、教条主義と言ってもさしつかえないだろう。そうではなくて、できるだけ自己修正的なあり方のほうがよい。やや頼りなくなってしまう面はあるだろうが。