熱の利と害

 教育への熱意はすごい。そうした熱心さは買うことができる。しかし、それだけでは危ないこともたしかだろう。脳科学者の茂木健一郎氏によると、熱に加えて冷静さも、それと同じかそれ以上に大事だということである。冷静さがあることによって熱が暴走するのを抑えられる。メタ認知ができる。メタ認知がないのだと、熱だけになり、冷却がきかない。

 熱くなるのであれば、その熱が高いぶんだけ、冷ますのもいる。そうしたふうであればのぞましい。このようにして言うだけであれば易しいようだが、じっさいにやるとなると難しいのもたしかである。思いこみである観念だとか、または想像なんかが自分の中でどんどん肥大化してしまう。そうした熱を冷ますことができれば、歯止めをかけられる。

 人間は現実をありのまま、生で受けとることはできづらい。たいてい何らかのイデオロギーを通してものごとを意味づけている。そのイデオロギーは、現実にぴったりと等しいわけではない。ずれがあるし、隠ぺいされているものもある。そこを明らかにしないといけない。われわれは予想や予期をもってしまうわけだけど、それをたまには疑う機会をもてればよさそうだ。閉じた見かたになりがちなのを、あえてこじ開ける。絶対化につながる固定点を、たまにはなくして見るのもできればよい。

 熱がたまるのを、そのままにすると、蓄積されてしまう。それをどこかで捨てなければならない。捨てることができないと、蓄積されたままになってしまう。過剰さのエネルギーが溜まりつづけるだけでは危ない。人間のもつ攻撃性は、動物とはちがい、抑えがききづらいと言われる。精神分析学では、人間は本能が壊れた動物だとされている。そこを自覚しておくのもありかもしれない。

 ほかの動物と人間とはちがう。人間は攻撃性の解発(リリース)と抑止(コントロール)のつり合いをとることに失敗しやすいという。ぜい弱性をもつ。これは動物行動学で言われていることだそうだ。ほかの面はともかくとして、この点については、少なくとも万物の霊長である人間はほかの動物に劣る。

 そのうえ、近代では経済効率のための同一化の圧力のせいで、息苦しくてガス抜きをしづらい社会となりがちだ。閉塞しがちになる。気晴らしと称して、他を叩くことでうっぷんを晴らす。または自傷(自罰)になってしまう。あまり他人のことはとやかくは言えないのだが、それだと原因がとり除かれず、かえって攻撃性が高まりやすい。