有害さと、価値とのつり合い

 安全と安心が両方ともかね備わっていればのぞましい。そうではなく、安全はあるが安心はないとして、安心のほうを追い求めてしまう。それは、健康にかかわる生命価値を重んじることになる。それはよいとしても、あまりに行きすぎになると、経済的価値とのつり合いがとりづらくなる。

 (安心はともかくとして)安全でさえあればとりあえずよし、とすれば、経済的な面とのつり合いがとりやすい。しかし、健康へのリスクをできるだけ最小にしようとすると、不つり合いになってしまう。そうしたおそれがある。これは、無害であるかどうかの健康の視点についての一元論のようになってしまうせいだろう。

 健康への危険のおそれがゼロなのでなければ、不安が完ぺきには払しょくされない。そうした健康にたいする一元的な価値判断が、必ずしもまちがっているとはいえないだろう。ただ、そこは相対化されるのがのぞましい面もありそうだ。現実的な資源の制約なんかがあるわけだから、経済的な最適解(最善解)みたいなのを追うわけにはゆきづらい。経営的な、一定の満足化の水準をふまえての見かたの方が、一元化を避けられる。

 有害なものがあるとすると、それは健康にかかわる生命価値を損なう。負価値となる。そのさい、生命価値をとくに重んじてしまうと、ほかの経済的価値なんかが抹消されて隠されてしまいかねない。くわえて、一つだけを見るよりは、2つのもの(新旧)を比べて、どちらがより快適価値が高いか、といった見かたも成り立つ。

 そうはいっても、食品を扱うのだとすると、なんだかんだ言っても、健康を害する有害なものがあるかないかの点が、最終的な決定要因(審級)になる。そのようにも見ることができるかもしれない。ここは、優先順位を決めるうえで、法的思考なんかが関わってくるのかも。