人混みの危なさ

 初詣のさいに、ベビーカーをともなっての参拝はやめてほしい。そういう立て看板をあるお寺が出していたようである。これは、事故がおこってからでは遅いので、あらかじめ安全を配慮してのものだろう。とはいえ、ことなかれ主義のような気がしないでもない。

 東京都の議員であるおときた駿氏は、ベビーカーをよしとしないのであるのなら、それだけではなく、ほかに松葉杖の人や車椅子の人も同じく考慮に入れないといけないのではないか、という意見をとり上げている。これははたして論点のすり替えにあたるのだろうか。おそらく、必ずしもそうとはいえないのではないかという気がする。

 ベビーカーについての話なのに、その他のものを持ち出すのが詭弁になってしまうとすれば、それをたしなめるのはわからないでもない。ただこのばあいは、(ちょっと性質はちがうけど)似たような種類の例を持ち出しただけであるといえそうだ。したがって、そこまで的はずれとはいえないと感じる。

 いわれてみればたしかに松葉杖の人や車椅子の人も、人混みのなかだと危険ではありそうだ。そこは、なるべくふつうの健常者のほうがゆずるなどしてうまく工夫してゆけば、なんとかなるのではないか。意思疎通をはかり、たがいの理解を共有できればよい。理想論であるかもしれないけど。

 他の人の迷惑になるから、空気を読むべきだ。このように見なしてしまうと、排除してしまうことになりかねない。迷惑の要素が前景化しているのである。いっさいまわりの空気を読まないのだとすると、出る杭のようになってしまうわけだけど、そこには心象もかかわってくる。おたがいにうまく協調することができれば、よい心象が形づくられやすい。

 ベビーカーについては、それが必要な時期は数年くらいなものなのだから、その期間くらいは人混みが予想されるところに出かけるのは我慢するべきだ、とする考えが根底にありそうだ。あたかも親として当然の神経のもち方であるといったようなあんばいである。このような考えを正しいとするのだと、フロイト精神分析学でいわれる超自我のようにはたらく。ただでさえ深刻な国の少子化がますます進んでいってしまうような気がしないでもない。

 子どもが小さいあいだの、長くてもほんの数年のあいだの我慢だし、そのうえ人が多くいて混雑しているところに限定される。そのほかの場所ならよいわけであり、そうした割り切りもひとつの分別だろう。しかし、これから先ではなくて、今においての生の充実も無視することができない。今を充実させたいのだとすれば、その思いが果たしてまちがっているのだろうか。これは個における自由の範囲にかかわる問題だ。

 人混みで混雑しているところとひと口にいっても、そこが必ずしも危険だとはいえない。頻度や確率の要素がかかわる。大きくいうと、混んでいるけど安全というのと、混んでいるから危険だというのと、2つの予想が成り立つ。あと、思っていたよりも人が多くて混んでいたというときに、そこですみやかに気持ちを切り替えて引き下がれるのかというと、難しい部分もあるのではないか。

 もし混雑での事故の危険があるとすれば、そこはあらかじめよく周知しておくのがふさわしそうだ。たんに駄目だとかけしからんとしてしまうと、父権主義(パターナリズム)になってしまう。それとはちがうやり方として、当人の意向をふまえつつ、うまくのぞましい方へ導けるようにする。あとは自己責任の問題であるし、まわりも少しくらいは協力してもよさそうである。幼い子どもは社会の貴重な財産でもあるわけだし、できれば尊重したいものだ。ゆくゆくはわれわれ自身の首を絞めることにもなりかねない。

 ベビーカーをともなった参拝を自粛するようにうながしたお寺の対応は、まちがったものだったのかというと、そこまでは言えそうにない。結果として問題提起となったのも、悪くはなかったのではないか。自粛の判断にいたった経緯や過程を明らかにしたうえで、その文言を添えて看板にのせられればなおよかった、といえそうだ。じっさいに、記者の取材にたいしてそのお寺の住職はそのように受け応えている。

 いぜん、そのお寺では、ベビーカーをともなった人にたいして、ほかの人よりも優先させて、すぐに参拝できるようなルートを設けていたそうだ。そうしたら、そのお寺の善意を悪用する人が出てきてしまった。悪用されてしまったため、今では廃止されているという。そもそも、そんなずるまでして時間を早めて参拝しても、ご利益はないだろうから、無意味な行為のような気がする。お寺の境内のなかでは、利他的なふるまいができれば、それだけでもご利益は高まりそうだ。