日本人は優秀か否か

 日本人は優秀なのか、それともそうではないのか。この 2つの説があって、いっぽうは日本人優秀説であり、もういっぽうは日本人劣等説である。日本人としてしまうと、くくり(主語)が大きすぎるのはまちがいないから、正確には優秀な人もいればそうではない人もいる、とするのがよい。
 すべての何々だと全称にあたるそうだから、それとはちがって、優秀な日本人がなかにはいるとして、存在しているとすればまちがいにはならないだろう。

 日本人はついつい日本(人)を語りたがるところがあるともいわれている。その欲求からくるのが日本人優秀説や劣等説なのだろう。この 2つの説は、経済の景気でいう好況と不況のようなものにあたる気がする。景気の波動のように、上と下に変動してゆく。

 いまの時代だと、日本人は優秀だとか、いやそうではなく劣等だとか言い切りづらく、その 2つが混在している。経済の景気でいうと、いまは景気がよいともいえるし、いや景気は悪いともいえるようなあんばいだ。見かたしだいで変わる。景気がよいと思っている人は、景気が悪いと思っている人にたいして、けしからんとする気持ちをもつ。何とか相手の考えを否定したいとなる。

 日本人を優秀だとする説は過大化であり、劣等だとする説は過小化にあたる。ことわざでは、過ぎたるは及ばざるがごとし、なんていうのもある。行きすぎはあまりよくはたらくとはいえない。ほどほどにしておくのがよいだろう。そういうところはあるけど、過小化してしまうのは不当な見なし方なのではないかとも疑える。なにかよこしまな魂胆が隠されているのではないか。あるいは不毛な自虐によっている。

 もし過小化するにしても、なにか理由があるのならよい。景気の悪さでいえば、構造に要因があるとして、その不備を改めるようにすれば、いずれ上向くことがのぞめる。過小化には、そうした負の面をあらわにする効用があることは否定できない。隠してしまうよりかはよいだろう。

 過小化とは、劣等であるとして、おとしめることである。政治の策略がかかわってきてしまう。これからの存続が危ぶまれるような、危機におちいることもなくはない。しかしいっぽうでは、消尽や濫費の面もあるという。呼吸でいえば、まず呼である、息を吐くことからはじまる。それと同じように、消尽や濫費として出し尽くしてしまう。そうすれば、新しくみずみずしい息を吸える。そういう流れもありえる。

 そうしてみると、過大化だけではなく、過小化の過程もふむことがいる。ひとつの挑戦といえるだろう。それが率先してなされるのか、それとも避けがたく見舞われるものなのかは定かとはいえない。縮充というのは、縮みながらも充実するということをあらわせるみたいで、そういうふうになればよい。ただじっさいには、縮むのは否定的な印象があるから、拡大を目ざしてしまうところがある。

 かりに日本人を優秀であるとしても、それは建て前上のことであるおそれもあるかな。本音ではちがうという。上げ底になっているわけである。優秀さに確証をもつにしても、そこに認知の偏りがおきるところがある。いったいに人間の心理には両価的(アンビバレント)な面があるから、複合的な見かたをすることもいる。あまり固定化して見ないほうがよさそうだ。日本人の範ちゅうのなかに、いろんな価値があり、その多様さがなるべく認められればよい。