扇動することの是非

 ポピュリズム批判批判がある。反反ポピュリズムともいえる。こういうことが言えること自体が、もともとポピュリズムの語に否定的な意味あいがあることを示しているような気がしなくもない。中立的な言葉ではないのだろう。

 なぜ、大衆迎合であるポピュリズムを叩くことがいるのか。いろんな理由があるのだろうけど、ひとつにはそれは独裁主義や全体主義につながってしまうからだという。第二次世界大戦におけるドイツのアドルフ・ヒトラーによるナチズムでは、この大衆主義をじつに巧みにもちいて独裁制をしいたことで知られている。その誤ちを再びくり返してはならないとする戒めの気持ちをもつのはまちがいではないだろう。

 大衆迎合はレッテル貼りにすぎないから、そういう当てはめを原則として使わないようにするべきではないか。この意見にはたしかに一理ある。いたずらなレッテル貼りはほんらいの姿を歪めてしまう。なかにはまっとうというか、健全な意図をもつ大衆主義もあるのだから、それを頭から否定してつぶしてしまうのはやや乱暴だ。

 一と口に大衆主義といっても、その中身は玉石混交だということになるのだろうか。石だけではなくなかには玉も混ざっているのだから、その玉を救い出すことはいる。そういう見かたもとれそうだ。しかし、玉に見せかけてじつは石だとすれば、危ういところがある。その点をおろそかにはできそうにない。改革のための必要悪だとしても、ひどければたんなる悪のおそれもある。

 ミイラ取りがミイラになるように、反大衆迎合大衆迎合になる、なんていう事態もありえそうだ。反大衆迎合を呼びかける言動が、イデオロギーと化す。同じ仲間うちのようになってしまうわけである。それでも、どちらかが野ばなしになってしまうよりかは危険性は少ないかもしれない。

 大衆に寄りそうのであれば、必ずしも危険だとは言い切れない。そのさい、大衆を扇動(アジテーション)してしまうようだと、その手法にたいする危うさはあるだろう。だから、その扇動の手法をとることにたいする警戒として、反大衆迎合を呼びかけるのは理にかなっているところがある。

 大衆迎合する人をポピュリストとしてしまうと、レッテル貼りに当たる。ポピュリストの名がメタ言語のようにしてはたらく。そうなることで、その人のやることを見る目が曇ってしまうこともありえる。あるていどのレッテル貼りはやむを得ないものではあるが、属性にとらわれずに、具体的な言動を吟味することができたらよい。

 いまの時代、指導者(先導者)と大衆の図式は成り立ちづらい。大衆は無知ではないし、情報はけっこういっぱいもっているから、判断の材料にはこと欠きそうにない。逆にいうと、どのように判断してよいのかがわかりづらく、何かきれいに割り切ってくれる人が重宝がられる。ものを割り切るさいに、偏りがおきてしまう。断片化したところに現実が映し出されるとはいえ、あくまでも(よく言っても)ものの一面にすぎない。そこに多少は自覚的であったほうがよさそうだ。