血のコストとは

 日本人は、血のコストにたいする意識が低すぎる。その意識を少しでも高めるための策として、高齢者と女性に徴兵制をしくのはどうか。そのような意見を、テレビ番組のなかで女性の評論家がしていたのを以前目にした。

 血のコストとは、いったい何のことを指しているのだろうか。おそらく、平和を維持するために流される血といったものなのだろう。多分にイメージが先行しているような気もするし、血をもち出されるといささか物騒でもある。それに、その徴兵制をしくのにかかる新たな金銭の負担は、いったい誰が出すのだろうか。

 じっさいにその任務の一端を身をもって経験して、はじめて実感として腑に落ちて分かることもあるにはある。そういった生の経験なくしては、理解がおぼつかなくなるところもあるだろう。しかし、義務として受動的にやらされるのでは教育効果はあまりのぞめないし、かえって反発の気持ちが芽ばえかねない。

 教育効果については、父権主義的に上から強いるのでは逆効果にはたらくおそれがある。たとえよいことなのだとしても、それはあくまでもその当人がそう見なしているだけであり、他の人が同じように認めるとはかぎらない。そこを政治的に上から押しつけるのだと、教条的だといってもいい過ぎではないだろう。

 世界的には、日本は血のコストを極力払わないで、平和を享受しているとする批判ができる。ただ乗りしている。ほかの国の兵士が平和を維持するために血のコストを肩代わりしてよけいに払っているわけだ。はたすべき相応の義務をきちんとはたしていない。たんにお金だけを負担するのでは足りないのである。
 しかしこれは本当だろうか。ほかの国の兵士が血のコストを払うのと、日本の国が平和なのとは、因果がはっきりとしているとはいえないのではないかという気がする。もっぱら世界の力関係によって争いがおきているのであり、そこに巻きこまれるかそれとも巻きこまれずにすむかといった話なのではないか。

 血のコストを払わないで、平和を享受するのは、悪いことなのだろうか。なんとなく、そこに罪悪感のようなものを感じたとすると、それは分からないでもないところはある。そこから、欺まんを見いだすこともできなくはない。一国平和主義として、広く現実を見ていないでいるとするのである。

 そもそも、血のコストは必要なものなのだろうかと問える。その必要がかりにあるとしても、ねつ造されている疑いが高い。ほんらい払う必要のないものを払うのだとすれば、(ほんらい流されるべきではないにも関わらず)いたずらに流された血だといえはしないだろうか。それだったら、不遜ではあるかもしれないが、払わないでいるに越したことはない。

 血のコストを意識すべきは、一般の国民というよりも、むしろ政治家なのではないだろうか。じっさいに戦地に行って生の現場を国のトップが目で見るべきだとする意見もあるけど、これはうなずけるところである。自分はしっかりと身の安全を守られながら、人には身の危険を負わせるようではおかしいと言わざるをえない。それこそ欺まんである。

 国のありようの一面である、力の体系についてどうするのかの議論はあってもよさそうだ。ここが今までないがしろにされてきた点は、色んなところで指摘されている。とはいえ、その点はたんに血のコストに還元されるものではないだろう。今まで、どれだけの国の富が、防衛費として内外へ流されてきたのかを無視はできない。その額は決して少なくはないだろう。

 どのみち、いくら国がもつ力の体系が高まったところで限度があるのはたしかだ。むしろ気をつけるべきは、変なうぬぼれから誇大妄想につながりかねない点にあるのではないか。妄想の肥大は危ういものだし、いずれへし折られることになる。冷静さをもって、大国願望を捨てるのもまた現実的といえそうである。

 いざとなれば、自衛隊の隊員の人たちが犠牲になるおそれがある。その犠牲を極力出さないように配慮することも大事だという気がする。その配慮をもつのは欺まんにあたるのだろうか。そうであるのかもしれない。ただ、そこに罪悪感をかならずしも感じることがいるのかは疑問だ。

 というのも、(当事者意識である)血のコストを引き受けないことにたいして罪悪感を感じるべきだとするのは、論点のすり替えになりかねないからだ。僧侶的な価値の惑わしにつながるといえる。いわば、弱者を罪人に仕立てあげて、あるべきありようとしての幻想価値を吹きこむ。そうした僧侶からの惑わしの点に注意するのもいりそうである。

 いや、むしろ一国平和主義による(総務ではなく)片務協定をそのままにすることこそが幻想価値ではないのか。アメリカの兵士は日本を守るのに、いざとなれば血を流すことになる。しかし日本はアメリカを守るのに血を流さない。アメリカ国民の側からすれば、このありようは不公平である。このありかたを改めることがいる。でないと、日米のしっかりとした同盟を外に示せない。

 この意見に関しては、たしかにその通りだなと感じる。自分のなかでは正直いって、恥ずかしい話ではあるが見落としていた点である。そうした意味においての血のコストにたいする意識はもつべきところがあるのかもしれない。

 もちろん、じっさいに少しでも血が流れるようないざこざは、なんとしてでも未然に防がなければならないことはたしかである。ただ、仮想(シミュレーション)をやらないわけにはゆかない。いくら日本人である自衛隊の隊員の命が大事だとはいえ、こちらだけが血を流さないのであれば、ではアメリカの兵士の命は大事ではないのかとなってくる。国はちがえど、人としては道徳上のちがいはない。その点を素通りしていたところが、自分の中での欺まんだったと思いいたる。

 なぜそうした欺まんになるのかといえば、一国における功利主義をとっていたためだとできそうである。一国のなかでの功利主義であれば、道徳上のちがいをとることができる。つまり、日本人の効用をなるべく高くすればよいのであり、アメリカの兵士の人のことは考慮の外におけるのだ。しかしそれでは、アメリカの有権者は納得しない。少なくとも、そうした情報を(アメリカの有権者が)手にしたあとでは、日本の側も改めて考え直さないとならないところは出てくるのだろう。