ダウトのラベルを貼る

 向田邦子氏に、「ダウト」という短編小説があった。これは、トランプのゲームにあるダウトという遊びが主題として関わっている話である。そこでふと思い返してみると、このトランプのゲームを過去においてじっさいにやった記憶はないのだけど、どこかで見かけたことくらいはあったかもしれない。

 このトランプのゲームは、現実においても当てはまるところがありそうだ。たとえば朝日新聞社が嫌いな人がいるとすれば、その人は、朝日新聞をほぼまるごとダウトであると見なしていることになる。そういう先入見の目をもってして見ている。

 トランプのゲームであれば、札に数字が書かれているわけだから、嘘か本当かというのははっきりと確かめやすい。しかし現実におけることがらであると、数字のように割り切れることは少なく、単純なありようをしてはいない。いっぽうに送り手がもつ立場があり、たほうに受け手がもつ立場があり、その両者のかね合いによって意味が定まってくるところがある。

 現実においては、何かに向かってダウトと宣告すれば、たいていはダウトと見なすことができる。というのも、多かれ少なかれ、たいていのものごとにはダウトが含まれていることがありえるからである。ダウトの含有率が 0%の完全に純粋なものを世界のなかで探して見つけることは至難のわざだろう。何であっても、どこかに少しくらいは不純さがあるものである。

 ダウトの範ちゅうの中に、さまざまな価値をもつものがある。受け手にとって都合のよいダウトは、受け入れられやすい。しかし都合の悪いものであれば、退けられたり拒まれたりする。陽性の価値をもつとされるものと、陰性の価値をもつとされるものとのちがいである。そこには価値意識がかかわってくる。

 何かについてダウトだと宣告すれば、たいていは当たってしまう。極端な話でいえば、言葉というのは嘘だから、言葉によって説明されたものはすべてがダウトだというところもなくはない。ただこう言ってしまうと極論になってしまうおそれがある。くわえて、自己言及の矛盾にもなってしまいそうだ。

 なぜたいていのものごとがダウトだと見なしえるのかといえば、それは真理との関わりがあるからだろう。哲学者のカール・ポパーは、真理は開示することが不可能であると言っているそうだ。真理の開示不能性である。これを開示可能であるとするのはまちがいとなる。かりに真理があるとしても、それをありのままの形で示す(show)ことはできない。ただ語る(tell)ことができるだけだという。語るさいには、送り手がいくら万全を期したとしても、どこかに不備がおきてしまうことがありえる。

 すべてがすべてダウトだと見なしてしまうのは、合理的な態度だとはいえそうにない。また現実的でもないだろう。そのうえで、これはダウトではなく、まぎれもない本物だ、と見なすようなものがありえるけど、そういうものにこそ、あえてダウトだという目を向けないとならないのではないか。たまにはそういうふうに、見かたをひっくり返すような機会があってもよい。

 まったくダウトをもたない人というのは、現実には存在しないのではないか。たとえば、生まれてから一度も嘘をついたことのない人などいるのかといえば、(そう宣言する人はいるかもしれないが)いぶかしいところである。そうしてみると、人はみなダウトを分有しているということもいえそうだ。真っ赤な嘘といったような明らさまな人はあまりいないだろうが、いろんな色を持つなかに、赤(ダウト)が一部に含まれている。純粋な白として、まったく赤が含まれていないような人は、現実にはちょっと想像しづらい。

 経済では、お金によって物やサービスを売り買いしている。そこで使われる貨幣や紙幣は、もとを正せばたんなる金属や紙きれにすぎない。なぜそうしたものに信用や価値がおきるのだろうか。全部がはったりでありつくりごとだというわけではないだろうが、少なくともそこには半分はダウトが関わっている。資本主義においての貨幣や紙幣のもつ価値とは、半分は幻想によって成り立つ。幻想と現実との合金(アマルガム)のありようをしているのだという。物神視(フェティシズム)もそこにははたらいている。

文脈による度合いの高めな、暗示的なポスター

 私(は)日本人でよかった。こうした文言が書かれたポスターが、京都にはいっぱい貼られているそうだ。駅の近くにいっぱい貼られているのかな。ポスターには女性が写されていて、頬に日の丸の赤いマークがつけられている。下のほうには、誇りを胸に日の丸を掲げよう、との文言もある。このポスターは、神社本庁が主として推進しているものだという。2013年から貼られているそうだ。

 まず、私は日本人でよかったという文言は、あくまでもこのポスターに写されている女性の、個人的な感想にすぎないのだろうか。とすると、この感想を演繹して普遍なものにすることはできそうにない。サンプル数が 1しかないので、軽んじてしまうこともできる。

 私は日本人でよかったというのは、結論だと思うんだけど、その根拠や理由が示されていないと、何ともいえないところがある。なぜ根拠や理由を少しでもよいから示さないのだろうか。たんに結論だけを言われても、受けとるほうとしてはとりたててどうしようもない。このポスターに写されている女性に何か特別な権威でもあれば別かもしれないが、そういうわけでもなさそうだ。

 私は日本人でよかった、というのは、一つの言明である。この言明がたんにそれだけで正しいというのは導かれづらい。もしそうして導いてしまうようであれば、宗教的だといってもさしつかえないだろう。この言明にたいして、反対するような言明もあったほうがのぞましい。でないと、反対する言明を認めないことになる。これは否定的な契機の抹消であり、隠ぺいにほかならない。

 自由主義の観点からすると、私は日本人でよかったという人がいてもよいし、そうでない人がいてもよい。それは個人の好き好きであり、歩んできた生き方のちがいも関わってくる。そうしたばらばらなありかたではなく、かくあるべしという規範をかかげるのもよいだろうけど、あくまでもそれぞれの人の意向を尊重したほうがよいのではないか。そのほうが全体としての効用はどちらかというと高くなりそうだ。

 誇りというのを持とうとするのもよい。しかしときには、そうした誇りをあえて捨てることができるような勇気を持てればなおよいのではないか。そうした勇気が持てたほうがより立派だという気がする。こうした勇気というのは、対他的な関係が関わってくるところから求められてくるものである。誇りを捨てるとまでは行かずとも、他からの指摘によって、うまい具合に自分を修正するといったありかたがとれれば、硬直した教義(ドグマ)による教条主義におちいらないですむ。

 誇り高さというのはおおむね受け入れられやすいが、逆に誇り低さといったのであれば、受け入れられづらい。そうした面はあるわけだけど、その受け入れられづらいところに、倫理的または存在論的な勇気が発揮されるものだといえそうだ。誇りが高いことによる戦闘(抗争)よりも、誇りが低いことによる平和のほうが、のぞましいこともある。そこについては、東アジアにおいてはとくに、(小)中華思想なんかもかかわってきそうだから難しいかもしれない。

管理の強化と、(個人の)自由の喪失

 保護されることをのぞむ。しかしそれには、監視や観察というのがついてまわる。そこがやっかいなところである。たとえ保護することがいるのだとしても、監視や観察されることもついてきてしまうのであれば、それはうとましいことでもある。監視や観察されるのは、干渉されることでもあり、それは(消極的)自由の侵害にほかならない。

 できるだけ世の中全体を管理しやすいようにする。これが、権力者がのぞむことであるだろう。管理しやすいほうが、少なくとも権力者の側にとっては有益にはたらく。都合がよい。不透明であるよりかは、透明さがきちんと行き渡っていたほうが、統制がうまくきく。それは管理社会と化すことを意味するものである。他律による支配を許す。

 透明化するというのは、一見すると響きがよいものだけど、必ずしもよいものであるとはいえそうにない。透明であるというのは、単一体(シンプル・ビーイング)を想定しているわけだけど、そのようなものは現実には存在しづらい。人間は心(または頭)のなかでいろんな要求をあわせ持っていて、そのつどやりくりしながら生きている。そうした複合性をもつ。不透明であるというわけだ。現実は科学のように何か一つの単純な要素には還元しづらい。

 図と地ということでいうと、保護されることを重んじるのは、それを図に当てはまることになる。そのさい、監視や観察は地になる。しかしこれは固定的なものではなく、保護を地として、監視や観察を図とすることもできる。これは視点をどこに置くかによってちがってくることだ。

 監視や観察をされるのを嫌なものとするのは、そこに何かよこしまな理由があるからである。この見なしかたは、必ずしも的を得ているとはいえそうにない。というのも、保護をよしとするのは、一見すると正当だが、それは一元論にほかならない。この一元的なありかたの裏に、別の思わくがはたらいている可能性がある。そこを批判することはなくてはならない。この批判を欠くと、権力を無条件に正当化するイデオロギーにつながる。

 保護されたいというのは、決してまちがった望みではない。しかしそれと同時に、監視や観察をされたくないというのも、決してまちがった望みとはいえない。できるだけ他から干渉されないで、(消極的)自由を保ちたいというのは、無理からぬことである。そうした意向をのぞましくないものと見なすことは、父権主義的な押しつけになりかねない。

 身近に危険や脅威が迫っているのだから、保護を強めようとするのは、理にかなっているところがあるのは否定できない。その理はあるわけだけど、一つ問題にできるのは、保護というのが何を意味しているかの点だろう。保護というのは一見するとよき光明のようなものだが、これは暗黒(ダーク・サイド)に転落することもなくはない。その暗黒に転落する可能性は決して低くはない。だから、それを危惧することは杞憂であるとはいえず、理があることもたしかだろう。

 保護という名目を、信用してうのみにしてしまいすぎるのも、それはそれで問題だと言えそうだ。もちろん、名目を信用することがすべからく間違いであると断じることはできない。ただそれは、よくよく検討して徹底的に調べあげたうえでのものであるならよいが、そうでないのならたんなる軽信におちいるおそれがある。こうした検討や調査の過程を十分に時間をかけてやったほうが、より現実的な結論が得られやすい気がする。

 犯罪者をとりしまるのもいるのだろうが、それと同時に、そのように仕立てあげられてしまうのもあるから、それが心配だ。そうはいっても、いったい何を心配することがあろうか、との批判もなりたつ。むしろ野放しになっているほうが心配ではないのか。たしかに、まったくの野放しになっているのだと危ないわけだけど、それは極端な話である。

 仕立てあげるというのは、ちょっと試みにやってみるといったようなことにはなりづらい。それよりも、何かしっかりとした基礎づけのもとに、方法としておこなわれる。そのさい、はじめの基礎づけがまちがうことがある。こうなると、結果としてできあがることもまたまちがうことになる。そこに確証がはたらきやすく、反証がはたらきづらい。たとえば、テレビなんかで、何々容疑者と大々的に報道されれば、誰しもがそのような目でその人を見てしまうものではないか。本当は罪がなかったとしても。

 治安をよくすることも大事ではあるけど、そのさい、効率を重んじてしまうのには警戒することもいる。効率的にものごとを進めてゆくのは、計算的な理性のはたらきだ。一見すると、計算することによって、見通しがよくなるかのような気もするが、それは計算不可能だったり、非効率だったりするようなものを切り捨てることによって成り立つ。したがってそれはたやすく野蛮化に転落して、暴力に行きつく。排斥するほうへ進む。

 近代において、こうした計算的な理性にとくに重きが置かれるようなんだけど、それにたいする抑制を多少なりともかけたほうがよさそうだ。方法によって揺るぎないものを求めてしまうところはあるが、そうではなくて、非方法によるありかたというのもあるのがのぞましい。それは試みとしてのありかたであり、できるだけ柔軟なふうにやってゆくものだろう。正確さをいちばんに優先させるのではなく、それをあるていど損なってしまいはするが、その代わりひどくぶつかり合ってしまうことを防げる。

 戦前や戦時中は、国というのを促成的に性急にこしらえてやってゆかないとならなかったから、そのさいに非国民という(いわれなき)負のしるしがつくられて、当てはめられてしまった。これは今からふり返るとまちがいだったわけである。その点をふまえると、今の時代は、そこまで差し迫った状況にあるとは特にいえそうにない。しかし、人によっては、できるだけ性急にことを進めるべきだ、との意見もある。ただそうすると、戦前や戦時中のように、また非国民といったような陰性の価値のしるしがつくられてしまいかねない。これをくり返すべきではないだろう。

 あまり偉そうなことを言える立場にはないのだが、性急さや直接さというのはなるべく避けるべきだという気がする。あえて時間をかけて、労力や費用をかけるというのもありではないか。少しでも気をゆるすと、たちまち労力や費用をかけないで、決めつけてしまうような、説明のエコノミーの原理がはたらく。説明を省略してしまう。この原理に従うのではなく、破ってしまったほうがときにはよい。加速度ではなく、遅速度を用いるといったあんばいだ。

戦争の否定

 戦争を禁じることによる平和のありかたがある。このありかたは、あらためて見ると、ひと筋縄では行かないところがありそうだ。もし、ごく素直に、戦争を禁じるようにして、それで平和が築かれるのであれば、それに越したことはない。しかし、ことはそう単純には運びそうにないのもたしかである。

 なぜことがそう単純には運ばないのだろうか。ひとつには、戦争を禁じることへの、斥力(せきりょく)みたいなのがはたらくことによりそうだ。反発をまねく。戦争を禁じることが一つの極であるとすれば、それにたいしてもう一つの極ができあがる。これによって両極のありかたになるわけだ。

 戦争を禁じるのは、反戦の立場に立つのであれば、ごくあたり前のことである。そこに疑問をさしはさむところはとくに見あたりそうにない。そのうえで、たとえば、学校なんかで、子どもにたいして、自分たちの国は戦争を禁じています、と教えたとしよう。その教えを、子どもたちは素直に受けとるかもしれない。しかし問題は大人たちにあるだろう。これをまちがった洗脳教育だとしたり、時代錯誤だと見なすこともできるのである。

 戦争や、それにまつわることを禁じるのは、一つの極ではある。しかし、その極だけでは話は終わりそうにない。もう一つの極を生み出してしまう。これは、ある面では、人間のもつ尺度を超えたところにあるような、自然史的な過程といえるだろう。

 戦争というのは一つの蕩尽であり消尽であるとされる。そうであるわけだから、それにとって代わるような、別の蕩尽や消尽をすることで、それにいたるのを防ぎ止めることができるかもしれない。

 たとえば、食べるものにも困るような、物が不足した貧しい状況がある。そうしたときには、あんがい争いやいさかいというのはどこかで歯止めをかけられる面がある(明日への希望があれば)。貧しさの克服という大目標を、みんなで共有しやすいからである。そうしたからっぽの世界をなんとか克服して、物であふれたいっぱいの世界になると、記号がものを言うようになる。記号的な世間話がとり交わされ、負のしるしをもつ者がやたらに叩かれるようになってしまう。そこには歯止めがのぞめそうにない。記号による欲望には物理的な限度がないからだ。

 今はいっぱいの世界であるとして、そこからふたたびからっぽの世界に簡単に戻ることはできない話ではあるだろう。非現実的だ。そのうえで、そもそもからっぽの世界とは、いったい何を示唆しているのだろうか。それは一つには、からっぽであるがゆえの豊かさみたいなものであり、また逆に、いっぱいであるがゆえの貧しさといったことはありえそうだ。もし、いっぱいであるがゆえの貧しさを抱えているとすれば、よりいっそう今よりもいっぱいになろうとしても、たんに貧しさが加速するだけなのではないか。何か擬似的であったとしても、多少なりともからっぽになるための手だてがいるのかもしれない。その手だてとは、(たんなる消費ではないような)蕩尽や消尽としての消費ということになりそうだ。

失言の一覧

 政権をになう人のあいだで、失言が目だつようになった。このツイートに一覧がのっていた。これは、安倍晋三首相が率いる政権の中枢に、たるみがおきてきている(ぶったるんできている)からだとの指摘がされている。たとえ失言とはゆかなくとも、強引な答弁をしてしまっているところも目につく。

 いまは政権の中枢にいるのかはわからないのだけど、石原伸晃氏の失言があった。じっさいにどういう文脈で使われたのかはよく知らないのだけど、金目でしょ、というものらしい。この金目でしょというフレーズは、そんなに悪くないような気がしてしまった。端的にものごとの本質をついているような気がする。予備校講師の林修氏の、(いつやるか)今でしょ、にも少し似ている。

直接に抗議するために現地へおもむくべきか

 北朝鮮の国民の人たちは、いちじるしく人権が損なわれてしまっている。ゆえに、人権をよしとするのであれば、その人は、ただちに北朝鮮へ行き、自分の命をかけて人権を擁護する運動をするべきだ。独裁政権への反対をしにゆくのがふさわしい。この意見は、正直いって、痛いところをつかれたという気がする。

 痛いところをつかれたとは思えるのだけど、しかしこうも言えるのではないだろうか。たとえ、北朝鮮独裁政権へ抗議しに行くべきなのだとしても、それはあくまでも理想にとどまる話なのではないか。理想ではまったくもってそうだけど、現実はまたそれとはちがっていてもよい。これは理想と現実のずるい使い分けであり、ほめられたことではないのはたしかではある。

 理想を現実化することが理想ではあるだろうけど、いっぽうで現実というのは妥協の産物でもある。妥協することが必ずしも悪いとは言い切れない。これは言い訳にすぎないのはたしかだけど、言い訳をしている人に人権が与えられないというのではないのもたしかだ。くわえて、言い訳をしていたとしても、それと並行して、人権をよしとする主張をしてもかまわない。表現の自由があるわけだし、とくに公共の福祉に反するわけではなさそうだ。唯一の絶対正義であるかはともかく、正義の一つだとして訴えるのはありだろう。

 現実による直接行動をとるのもよい。しかし、そのさい、武力などの力を行使するのはあまり賛同できそうにない。力を行使するための大義名分として、他国の政府による(その国の国民への)人権侵害を正すのを持ち出すこともできる。この大義名分に、欺まんがまったくないとは言えないだろう。武力などの力というのはできるかぎり使わないに越したことはないわけだから、それを使うための建て前として人権を持ち出すことにはあまり賛成できない。武力などの力の行使は下策であり、話し合いなんかによる説得のほうが上策だという気がする。甘いことを語るなと言われるかもしれないが。

夢の大きさの、論理とその作用

 夢を描くのはできるだけ大きいほうがよい。そのほうが、かりに 10割でなく、そこから差し引かれて 7割または 5割くらいしかかなわないとしても、もともと描かれたものが大きいのだから、受ける恩恵は大きい。

 ソフトバンクの社長の孫正義氏は、描いた夢の大きさが、おおむね比例するようにして現実に反映されると言っていた。大きければ大きく現実にはね返ってくるし、小さければ小さくしかはね返ってはこない。

 現実の皮肉さをふまえることもできる。大きな夢を描けば描くほど、それが反比例して現実に反映されてしまう。そして、小さければ小さいほど、それが正比例する。もしこんな法則がはたらいてしまうとすれば、凡人中の凡人であるあかしにほかならない。偉人は、大小によらず、一貫して正比例するのだろう。

 このように、凡人と偉人とを、まるで別な人間であるかのように分けてしまうのは、正しいとらえかたではない。同じ人間であるのだから、同じ法則がはたらいてしかるべきなのである。きっとはたらくはずなのだ。そうであるのなら、勇気づけられることはたしかである。しかし、期待とはうらはらに、一貫性のまるでない法則がはたらいたら、嫌だなあという気がした。

計りがたい甚大さ

 あくまでも仮定の話として、大きな災害が首都圏の近くでおきたとする。そうであれば、それ以外のところでおきるのと比べて、被害がとても大きくなってしまう。これについては、必ずしもまちがったことを言っているわけではないかもしれない。たしかに、即物的に言えば、そうしたことは言えそうだ。しかし、言いあらわし方で角が立つというのがある。口言葉というのは、とりわけ難しいところがあるだろうし、まわりからの干渉がはたらく。

 国家主義に立つのであれば、国家の全体として、おきる被害の大きさができるだけ小さいほうがのぞましい。そうしたことは言えるわけだけど、国家主義が一番えらいわけではなく、正しいわけでもない。階級秩序(ヒエラルキー)みたいにして見てしまうと、主と従みたいにとらえてしまいかねないところがあやうい点である。重要度という点で見て、国家がその他(たとえば地方など)よりも抜きん出て優遇されるというのはちょっと賛同できない発想だ。

 全体の被害の額や数というのもたしかに無視できない要素ではあるが、その大小だけがすべてではない。大小だけが大事だと見なしてしまうと、生産中心主義におちいる。これは経済の量の論理である。しかし、そこからとり落とされてしまう、質の問題もある。たった一人の悲劇や不幸だったとしても、軽んじられてよいものではないだろう。偽善に響くかもしれないが、質という点でふまえたら、量のいかんによってできごとを相対化することはできない。

 国家のレベルで被害を少なくしたいのであれば、あらかじめ首都機能を分散させておくのがよいのではないか。首都機能が一部分に過度に集中していると、効率がよいことはあるが、そのいっぽうでいざというときにぜい弱さをもつことになってしまう。そこは、首都に過度にものごとが蓄積されてしまうのを、何とかして改めることがいるだろう。そもそもはじめからやる気がないのかもしれないが、そのままで放っておくと、都市の過剰さがもたらす危険さを解消できない。

 失言とはいっても、発言の中の一部を意図的に切り取るようにしてあげつらうのは、場合によっては、ちょっとちがうところがあるかもしれない。それを考慮に入れることはいるだろうけど、それとは別に、心にも思ってもいないことは、なかなか口から言葉としては出てきづらいのもいなめない。ついうっかりというのはあるわけだけど、受けとるほうとしては、どうしても、心でそう思っているから、問題のあることを言うのだろう、と見てしまう面があるのもたしかである。

 ぽろっとこぼれた細部みたいなところに、本質が宿ってしまうといった面もあるのではないか。あまりに強引な一部の切り取りは報道する方にも問題があるにしても、いっぽうで、あまり気にとめづらい細部に、意外な無意識があらわれ出てしまうといううらみもなくはない。そこは、その発言の中で何を言いたかったのかという中心の動機と照らし合わせて、その動機にもまずいところがあるのであれば、たんなる重箱の隅つつきであるとは言えそうにない。

前望的に立ち止まる

 日本のテレビドラマのありかたに、もの申す。デーブ・スペクター氏は、海外のさまざまなテレビドラマと比べて、日本のものはそれと質的に肩を並べるにいたってはいないとしている。なので、一度すべてのドラマを、2年間ほど、テレビで流すのを一切とりやめるようにする、大胆な決断をするべきだ。そしてそのとりやめている 2年間のあいだに、海外のすぐれたドラマからよいところを吸収して、学習する。そうすれば、質の高いものを生み出すことができるようになる。

 デーブ氏のこの意見の投げかけは、個人的には賛同できるものである。とはいえ、じっさいに実行するのは難しそうである。日本のテレビドラマをおもしろく楽しんでいる人もいるわけで、それは視聴率に反映されるものだろう。視聴率がとれているということは、商売として成り立っていることになる。最低限のハードルはクリアしているわけで、さしせまった危機の感覚はもちづらい。とりあえず動きつづけているのであれば、それをもってして安心できるところもある。静止することへの不安もある。

 海外と比べて、その優れたものと質的に肩を並べるにはいたっておらず、くわえて視聴者を無視して配役などを決めてしまっている面もある。こうした問題点が日本のテレビドラマにはあるらしい。あまり日本のテレビドラマばかりを責めるのは酷ではあるが、これはドラマにかぎらず、他のものにも当てはまることではないかという気がする。

 経営という観点でいえば、今はこのようになってしまっているのではないか。あるものについて、満足している人たちと、不満をもっている人たちとが、分裂してしまっている。満足している人たちだけで成り立っている小世界がある。いっぽう、不満をもっている人たちは、どこか別なところに行ったりするので、その声が反映されづらい。不満の声があまり反映されないので、小世界において、経営の決定的な危機というまでにはいたらない。

 進化という視点がいちじるしく欠けてしまっているような気がする。個人的には、進化してゆくべきだというよりも、むしろそうしてゆかなければならない(ゆこうとしなければならない)、というふうに見なしたい。なので、できるだけ、高次学習の機会を進んでもつようにしたい。そうでないと、同じことのくり返しにおちいる。いずれ立ち行かなくなる。知らずうちに、ずるずると後退していってしまう。

 何でもかんでも進化すればよいのかといえば、そういうわけではないだろう。たとえば文化なんかでは、保守的な姿勢のほうがよいこともあるのはまちがいない。そこは価値のもち方において、何を変えないで残すのかにこそ価値があるものもあるだろう。見きわめをすることがいる。

 そうした部分もあるが、万物は流転する、というのも言われている。人間の体では、日々細胞が入れ替わっている。1年くらい経てば、骨なんかをふくめて、すべての体の成分が入れ替わるらしい。そうしたことをふまえると、何か変わっていったり、ひとところにとどまらないようにしてゆくことが、ひいては自由につながるのではないか。

 別にひとところにとどまりつづけてもそれはそれでよいわけだけど、たとえば定住というありかたについても、それが人間の本質というわけではない。むしろ動くところに本質があるとすらいえる。なので、進化せずに停滞するようだと、不自由になるという面もあるのではないか。あくまでも理想ではあるが、そこについては、弁証法的に止揚(アウフヘーベン)みたいなのができればよさそうだ。

 先において、えらそうに進化をするべきだなどと言ってしまったわけだけど、これは個人の奮起をうながしたいがためのものではない。個人の奮起というのは、すでにいたるところでなされているものだという気がする。また、進化にとり残されるなだとか、時流に乗り遅れるな、と言いたいのでもない。そうではなくて、現状追随主義(ポジティビスムス)でないふうにできたらよい。ポジによるだけでなく、ネガによる視点に立ち、現状の批判を積極的にやってゆくようにする。

 他の国なんかから、そのよいところをどんどん学んで、うまくとり入れられたらよさそうである。現状のありかたというものに、必ずしもこだわらなくなれればのぞましい。そういうふうにして、ビビンバ的な、雑種的(ハイブリッド)なありかたがとれたほうが、行き詰まるのを少しは防げそうだ。