本質という準拠点は、絶対的なものであるとは言えそうにない

 本質に目を向けよ。そこをとっかかりとして足場にすることで、真に意味のある話をすることができる。そういうふうな本質主義みたいなのがある。たしかに、本質的でないことばかりに目を向けてしまっていれば、本質的な話ができなくなることはあるだろう。したがって、本質になるべく目を向けてゆくことがいるという指摘はそれほど間違ったものとはいえそうにない。

 そうはいっても、あまりに本質を重んじてしまうと、人間中心主義みたいなことになりかねないあやうさがありそうだ。人間中心主義というのは、人間と自然とを二項対立させる見なしかたである。これになぜ本質が関わるのかというと、人間と本質とをイコールでつなげることができるからにほかならない。自然は何とイコールになるのかといえば、そこには非本質を当てはめることができる。

 本質を上として、非本質を下と見なすのは、人間を上として、自然を下と見なすことに通ずる。これは、人間が自然を支配するありかたとなる。一方的に搾取する。これをうら返せば、自然が人間に支配され搾取されることになるわけだ。

 人間が自然を支配することに、いったい何の問題があるというのか。とくに何の問題もないではないか。そのようなふうにも見ることができる。そのうえで、もし問題があるとすれば、それは人間が自然を支配してしまうことにおいて、とくに何の正当性もないことがあげられるだろう。勝手に人間が決めたことにすぎない。

 自然は人間ではないわけだけど、非本質というのは人間のありかたの一つである。したがって、本質と見なされる人間が、非本質と見なされる人間を支配することにつながりかねない。これはあまりのぞましいあり方とはいえないものだろう。そもそも人間は、誰からも支配されず、また逆に支配せずにいることができれば、それに越したことはない。

 非本質であるよりかは、本質によっていたほうがどちらかといえばよいわけだけど、だからといって、本質たる人間が非本質たる人間をしいたげてもよいということにはならない。人間が自然を支配するといったような図式にならないようにできればのぞましい。

 そうしたようなことで、本質主義よりも遠近法主義(パースペクティビズム)であったほうがよい。個人的にはそのように感じる。自分の本質というのを、たまにはカッコに入れて、哲学の現象学でいわれる還元することができたらさいわいである。

 本質というもののなかには、たとえば現実であるとか、または国家であるとか、もしくは民族であるとかいうのを代入することができる。それが先立つとするのが本質主義であるだろう。しかしそうではなくて、実存主義でいわれるように、実存のほうが本質よりも先立つ、というふうに見ることもできる。こうしたありかたをたまにはとってもよいだろう。

来年から楽をすることの妥当さ

 来年から楽をするのはずるい。学校の PTA の活動をある時点でもしやめるにしても、それまで PTA にたずさわっていた人が、不当に苦労していたことになってしまう。浮かばれないではないか。こうしたところから出てきた意見なのだろう。正直いって、この意見は分からないでもないなという気がしてしまった。

 たとえば教育の無償化なんていう案が、憲法の改正とからめて訴えられているけど、これにも同じようなことが言えそうだ。もしこの案が現実になって、さあ来年から教育は無償化ですよとなったとすれば、来年から無償になるのはずるい、ということも言えるのではないか。それまで有償で苦労して負担していた人の苦労はいったい何だったのだろうか。浮かばれないような気がする。

 もし現状のありかたがまちがっているのだとすれば、それをそのままにせずに、変えてゆくことはあったほうがよい。それは大かたの人がそう思っているところだろう。そのうえで、新たにおきてきてしまう不平等の問題というのがある。時間または空間の分断による。この不平等はどうやって解決したらよいのだろうか。そこが難しいところだという気がする。

 新しいありかたにおいては、みんなが平等に楽になるのだから、それでよいではないか。または、めぐりめぐってみんなに益になるのだから、つべこべ言わずに従うべきである。そういうふうに言うこともできるだろう。たしかにその言い分には正しい部分があるとは思うんだけど、全面的には腑に落ちないこともたしかだ。どこかに新しく不平等がおきてしまうのであれば、それはそれで(できればということではあるけど)なるべく正されるのがのぞましいのではないか。

 みんなが楽になるのなら、それに越したことはないのはまちがいがない。また、みんなに益になるのであれば、その恩恵が広く行き渡るわけだから、よいことである。そういった点については、より合理的になってゆくのがあるわけだから、理解が進んだほうがよい面がある。そのうえで、そうした合理的なほうへものごとを進めてゆくのとは別に、もっと根源的に、みんながなるべく平等になるためにはといった視点ももてればよいのかなという気がする。やや大げさかもしれないが、新しい犠牲者が多少なりともおきてしまうのであれば、それはどこかにまずいところがあると見なすこともできなくはない。

機が熟したのだとしても、さらによりいっそう機が熟すのを待つという安全策もある

 憲法改正への機は熟してきた。そのように安倍晋三首相は語っている。いままでのように、護憲か改憲かといったやりとりは、それをいくら積み重ねたとしても、もはや不毛である。あまり意味のあるやりとりとはいえなくなった。なので、いままでよりもさらに一歩を踏みこんだ、具体的な行動をとるべきときが来たと見なすことができる。

 安倍首相がいうように、はたして憲法改正への機がほんとうに熟してきたのかどうかは、疑問の余地があるような気がする。そこまで議論が深まっているとはいえないのではないか。そして、護憲であるべきか改憲するべきかのやりとりが不毛であるというのであれば、機が熟したか熟していないかのちがいもまた不毛といえなくもない。

 なぜ、機が熟したか熟していないかのちがいが不毛であると言えるのか。それは、仮の話でいえば、たとえ(安倍首相がいうように)機が熟していると見なしたからといって、そこで速やかに国会で改憲の発議を発して、国民投票にかけるのは性急にすぎるからである。

 一つのやりかたとして、もし憲法改正への機が熟してきたとしても、さらに機が熟すのを待つようにして、より慎重な手順を踏むというのがあるという。改憲の発議をして、そこから切れ目なしに国民投票にかけてしまうのではなくて、そのあいだに 2年くらいの空白期間をもうける。その期間のあいだに、はたして本当に改憲がいるのかどうかを、あらためてより慎重に見てゆくのである。

 たとえ機が熟したからといって、そこで急ぎ足に国民投票までもってゆくことは、必ずしも有益にはたらくとはいえそうにない。そこはあえて(加速度ではなく)遅速度をもってして、その必要さに欺まんやねつ造がないのかどうかを、つぶさに見てゆくのがよいのではないか。1回だけではなくて、何重(幾重)にも機が熟すのを待つようにするのである。

 買いものでいえば、改憲の発議をして速やかに国民投票にかけてしまうのは、衝動買いに通ずるところがある。これだと意思決定を失敗してしまうおそれがいなめない。買いものにおいての衝動買いを避ける工夫のようにして、いったんあえて間を置くというのは必ずしも不適切な抑制のかけかたとはいえないだろう。ひと目見てどうしても欲しいと強く思ったものでも、そこですぐに買おうとしないで、一定の期日をすごすあいだに気持ちが変わることがある。じっさいにはそんなに欲しくはなかったんだとなれば、無駄な買いものをしないですんだわけだ。

 憲法というのは、基本としては原理を示したもので、それは大づかみな価値の方向性をあらわしたものだとされる。であるから、その大きなくくりの価値のなかで、解釈によって許される範囲にとどめておくべきではないか。あとは、憲法の中身を変えるのではなくて、法律をつくることでできてしまうことは、それですましたほうがのぞましい。もっともこの意見は、護憲派に近いものだから、中立的な意見であるとはいえないものだろう。

 憲法が、原理として、価値を示しているとはいっても、それをすべての人が正しいものであると見なすばかりではないのだろう。それはしかたがないことかもしれない。そのうえで、自己保存というのが関わってきてしまう点がやっかいだ。自己保存には自己破壊がふくまれていて、これは自虐とも見なせるものである。この自己破壊を外に向けてしまうと他者破壊になってしまう。自己保存(力への意志)の肥大化による他者破壊への流れは、歴史的にいって、たやすくそうしたほうへ流されていってしまうところがあるのはおそらく否定できそうにない。万人が争い合う相互敵対状態(戦争状態)は、今われわれが置かれている人間関係(国際関係)のありようの一つだ。

 歴史の見かたにはいろいろな立場があるかもしれないけど、一つの見かたとしては、先の大戦において、日本が国として国内および国外の多くの人に多大な被害をもたらしてしまったことがある。そうした深刻な他者破壊のありようを、いま一度あらためて見てみることもいるのかもしれない。そこには、自民族中心主義(エスノセントリズム)だったり、盲目的愛国主義(ショービニズム)だったり、国家宣揚的愛国主義(ジンゴーイズム)だったりといった、反省することができる材料にはこと欠きそうにない。

 滅私奉公のように、国家の公が幅をきかせ、私を押しつぶしてしまったのは、歯止めなき国家主義の暴走によっていた。そうした国家主義をあらためて、個人主義によるようにする。個人主義によるからといっても、国家がまったくいらないとしてしまうようだと、無政府主義みたいになってしまうから、極端になってしまうかもしれない。そのうえで、公をふくらませてしまえば、私がやせ細りすり減って削れてしまう。そうではなくて、(一人ひとりの)私をふくらませられるようなありかたがのぞましい。あるいは、公と私のあいだをつなぐ、共という媒介があるとされるので、それを何とかして形づくるようにできればよさそうである。

 日本の過去にやったことが、ただ一国だけ単独で悪かったとはいえないにしても、後づけで正当化ないし合理化してしまうようであればそれはそれで問題だ。振るってしまった暴力の痕跡というのが残されているわけだから、その痕跡をすべてみなつくりごとだと見なしてしまうのは自己弁護のしすぎになりかねない。もっとも、もし強引な自己弁護でないのであれば、申し開きくらいはあってもよいだろう(一方的に言い分をのまなくてもよい)。

 その負の痕跡がたとえ小さなものであっても、それのもつ意味は決して小さくはない。小さな負の痕跡にも、まともに向き合うべきである。小さいものだからこそ、むしろそこに(大きなものにはないような)重要さがあるとすら言えなくもない。そうしたことをふまえたうえで、作家の星新一氏が言っていたことなのだけど、過去にペーソスをもち、未来にユーモアをもつ、といったように(悲観と楽観のどちらかに極端に偏らずに)つり合いがとれたらよさそうだ。

未来の世代への忖度

 終戦(敗戦)記念日の 8月 15日の前に、談話を発表した。これはいまから 2年前のものだから、話としてはやや古いものであり、それを今引っぱり出してくるのもちょっとどうかなというところはあるかもしれない。そのうえで、安倍晋三首相による 2015年の談話のなかで、(今さらながら)引っかかるところがあるなというふうに感じた。

 それは、以下の箇所である。これからの日本人について、あの戦争には何ら関わりのない、私たちの子や孫、そしてその先の世代の子どもたちに、謝罪を続ける宿命を背負わせてはなりません。正直いって、この箇所については、ちょっと違和感を感じてしまうところがあるのである。なんとなく引っかかってしまう。

 いっけんすると、子や孫やその先の未来の世代にたいして、おもんばかっているかのようにも受けとれないではない。しかしはたして本当にそうなのだろうか。というのも、未来の世代は、(近隣諸国にたいする)謝罪を喜んでおこないたいという気持ちを抱くかもしれないからである。その気持ちを抱く可能性はゼロとは言い切れない。

 かりに、近隣諸国にたいして謝罪をするのが義務であるのだとしても、未来の世代がその義務を嫌がるとはかぎらないわけである。そのころには、近隣諸国との関係のありかたが変わっていて、お互いに受け入れて受け入れられてといったように、すごく友好的になっているかもしれない。そうであれば、謝罪をすることによって、その友好のきずなをさらに強めることにもなりえる。

 まずひとつには、未来の世代と一と口にいっても、そのなかには色々な人がいるわけだから、あまり一様なものとしてとらえるのはどうなのだろう。それにくわえて、現在のわれわれの(代表の)気持ちのもちかたを、未来の世代に当てはめるのは、ともすると未来の世代にたいして迷惑にあたるのではあるまいか。

 義務というのはたしかに見かたによっては負担になるものではある。なので、謝罪の義務を追わないですむようにしたほうが、そのほうがうれしいだろう。幸せだろう。こうした見なしかたは、今のわれわれ(の代表)がそう見なしているだけであり、未来の世代からすれば、よけいなお世話だとされてしまうおそれもゼロではない。

 未来の世代へ謝罪の宿命を負わせてはならないというのは、どちらかというと自由主義による歴史のとらえ方といえるかもしれない。それは負荷なき自己(集団)のありかたである。そうではなくて、共同体主義でいわれるような、負荷をもったありかたのほうがより具体的な態度といえるだろう。そうはいっても、これはちょっと単純な 2分法で分けすぎかもしれず、またそれぞれの好みにもよるかもしれない。

 負の歴史というのは一つの負荷であり、汚(けが)れみたいなものであるかもしれない。しかしその汚れは、不浄とまではいえないのだとすれば、そこまでやっきになって否定することはいりそうにない。汚れというのは両面価値をもっていて、必ずしも陰性の価値をもつだけとは言い切れないのもたしかである。そこには変革のきっかけがあり、創造性もありえる。うまくプラスに転化しうることもできるとすれば、そうしたほうがよいだろう。簡単な話ではないかもしれないが。

ダウトのラベルを貼る

 向田邦子氏に、「ダウト」という短編小説があった。これは、トランプのゲームにあるダウトという遊びが主題として関わっている話である。そこでふと思い返してみると、このトランプのゲームを過去においてじっさいにやった記憶はないのだけど、どこかで見かけたことくらいはあったかもしれない。

 このトランプのゲームは、現実においても当てはまるところがありそうだ。たとえば朝日新聞社が嫌いな人がいるとすれば、その人は、朝日新聞をほぼまるごとダウトであると見なしていることになる。そういう先入見の目をもってして見ている。

 トランプのゲームであれば、札に数字が書かれているわけだから、嘘か本当かというのははっきりと確かめやすい。しかし現実におけることがらであると、数字のように割り切れることは少なく、単純なありようをしてはいない。いっぽうに送り手がもつ立場があり、たほうに受け手がもつ立場があり、その両者のかね合いによって意味が定まってくるところがある。

 現実においては、何かに向かってダウトと宣告すれば、たいていはダウトと見なすことができる。というのも、多かれ少なかれ、たいていのものごとにはダウトが含まれていることがありえるからである。ダウトの含有率が 0%の完全に純粋なものを世界のなかで探して見つけることは至難のわざだろう。何であっても、どこかに少しくらいは不純さがあるものである。

 ダウトの範ちゅうの中に、さまざまな価値をもつものがある。受け手にとって都合のよいダウトは、受け入れられやすい。しかし都合の悪いものであれば、退けられたり拒まれたりする。陽性の価値をもつとされるものと、陰性の価値をもつとされるものとのちがいである。そこには価値意識がかかわってくる。

 何かについてダウトだと宣告すれば、たいていは当たってしまう。極端な話でいえば、言葉というのは嘘だから、言葉によって説明されたものはすべてがダウトだというところもなくはない。ただこう言ってしまうと極論になってしまうおそれがある。くわえて、自己言及の矛盾にもなってしまいそうだ。

 なぜたいていのものごとがダウトだと見なしえるのかといえば、それは真理との関わりがあるからだろう。哲学者のカール・ポパーは、真理は開示することが不可能であると言っているそうだ。真理の開示不能性である。これを開示可能であるとするのはまちがいとなる。かりに真理があるとしても、それをありのままの形で示す(show)ことはできない。ただ語る(tell)ことができるだけだという。語るさいには、送り手がいくら万全を期したとしても、どこかに不備がおきてしまうことがありえる。

 すべてがすべてダウトだと見なしてしまうのは、合理的な態度だとはいえそうにない。また現実的でもないだろう。そのうえで、これはダウトではなく、まぎれもない本物だ、と見なすようなものがありえるけど、そういうものにこそ、あえてダウトだという目を向けないとならないのではないか。たまにはそういうふうに、見かたをひっくり返すような機会があってもよい。

 まったくダウトをもたない人というのは、現実には存在しないのではないか。たとえば、生まれてから一度も嘘をついたことのない人などいるのかといえば、(そう宣言する人はいるかもしれないが)いぶかしいところである。そうしてみると、人はみなダウトを分有しているということもいえそうだ。真っ赤な嘘といったような明らさまな人はあまりいないだろうが、いろんな色を持つなかに、赤(ダウト)が一部に含まれている。純粋な白として、まったく赤が含まれていないような人は、現実にはちょっと想像しづらい。

 経済では、お金によって物やサービスを売り買いしている。そこで使われる貨幣や紙幣は、もとを正せばたんなる金属や紙きれにすぎない。なぜそうしたものに信用や価値がおきるのだろうか。全部がはったりでありつくりごとだというわけではないだろうが、少なくともそこには半分はダウトが関わっている。資本主義においての貨幣や紙幣のもつ価値とは、半分は幻想によって成り立つ。幻想と現実との合金(アマルガム)のありようをしているのだという。物神視(フェティシズム)もそこにははたらいている。

文脈による度合いの高めな、暗示的なポスター

 私(は)日本人でよかった。こうした文言が書かれたポスターが、京都にはいっぱい貼られているそうだ。駅の近くにいっぱい貼られているのかな。ポスターには女性が写されていて、頬に日の丸の赤いマークがつけられている。下のほうには、誇りを胸に日の丸を掲げよう、との文言もある。このポスターは、神社本庁が主として推進しているものだという。2013年から貼られているそうだ。

 まず、私は日本人でよかったという文言は、あくまでもこのポスターに写されている女性の、個人的な感想にすぎないのだろうか。とすると、この感想を演繹して普遍なものにすることはできそうにない。サンプル数が 1しかないので、軽んじてしまうこともできる。

 私は日本人でよかったというのは、結論だと思うんだけど、その根拠や理由が示されていないと、何ともいえないところがある。なぜ根拠や理由を少しでもよいから示さないのだろうか。たんに結論だけを言われても、受けとるほうとしてはとりたててどうしようもない。このポスターに写されている女性に何か特別な権威でもあれば別かもしれないが、そういうわけでもなさそうだ。

 私は日本人でよかった、というのは、一つの言明である。この言明がたんにそれだけで正しいというのは導かれづらい。もしそうして導いてしまうようであれば、宗教的だといってもさしつかえないだろう。この言明にたいして、反対するような言明もあったほうがのぞましい。でないと、反対する言明を認めないことになる。これは否定的な契機の抹消であり、隠ぺいにほかならない。

 自由主義の観点からすると、私は日本人でよかったという人がいてもよいし、そうでない人がいてもよい。それは個人の好き好きであり、歩んできた生き方のちがいも関わってくる。そうしたばらばらなありかたではなく、かくあるべしという規範をかかげるのもよいだろうけど、あくまでもそれぞれの人の意向を尊重したほうがよいのではないか。そのほうが全体としての効用はどちらかというと高くなりそうだ。

 誇りというのを持とうとするのもよい。しかしときには、そうした誇りをあえて捨てることができるような勇気を持てればなおよいのではないか。そうした勇気が持てたほうがより立派だという気がする。こうした勇気というのは、対他的な関係が関わってくるところから求められてくるものである。誇りを捨てるとまでは行かずとも、他からの指摘によって、うまい具合に自分を修正するといったありかたがとれれば、硬直した教義(ドグマ)による教条主義におちいらないですむ。

 誇り高さというのはおおむね受け入れられやすいが、逆に誇り低さといったのであれば、受け入れられづらい。そうした面はあるわけだけど、その受け入れられづらいところに、倫理的または存在論的な勇気が発揮されるものだといえそうだ。誇りが高いことによる戦闘(抗争)よりも、誇りが低いことによる平和のほうが、のぞましいこともある。そこについては、東アジアにおいてはとくに、(小)中華思想なんかもかかわってきそうだから難しいかもしれない。

管理の強化と、(個人の)自由の喪失

 保護されることをのぞむ。しかしそれには、監視や観察というのがついてまわる。そこがやっかいなところである。たとえ保護することがいるのだとしても、監視や観察されることもついてきてしまうのであれば、それはうとましいことでもある。監視や観察されるのは、干渉されることでもあり、それは(消極的)自由の侵害にほかならない。

 できるだけ世の中全体を管理しやすいようにする。これが、権力者がのぞむことであるだろう。管理しやすいほうが、少なくとも権力者の側にとっては有益にはたらく。都合がよい。不透明であるよりかは、透明さがきちんと行き渡っていたほうが、統制がうまくきく。それは管理社会と化すことを意味するものである。他律による支配を許す。

 透明化するというのは、一見すると響きがよいものだけど、必ずしもよいものであるとはいえそうにない。透明であるというのは、単一体(シンプル・ビーイング)を想定しているわけだけど、そのようなものは現実には存在しづらい。人間は心(または頭)のなかでいろんな要求をあわせ持っていて、そのつどやりくりしながら生きている。そうした複合性をもつ。不透明であるというわけだ。現実は科学のように何か一つの単純な要素には還元しづらい。

 図と地ということでいうと、保護されることを重んじるのは、それを図に当てはまることになる。そのさい、監視や観察は地になる。しかしこれは固定的なものではなく、保護を地として、監視や観察を図とすることもできる。これは視点をどこに置くかによってちがってくることだ。

 監視や観察をされるのを嫌なものとするのは、そこに何かよこしまな理由があるからである。この見なしかたは、必ずしも的を得ているとはいえそうにない。というのも、保護をよしとするのは、一見すると正当だが、それは一元論にほかならない。この一元的なありかたの裏に、別の思わくがはたらいている可能性がある。そこを批判することはなくてはならない。この批判を欠くと、権力を無条件に正当化するイデオロギーにつながる。

 保護されたいというのは、決してまちがった望みではない。しかしそれと同時に、監視や観察をされたくないというのも、決してまちがった望みとはいえない。できるだけ他から干渉されないで、(消極的)自由を保ちたいというのは、無理からぬことである。そうした意向をのぞましくないものと見なすことは、父権主義的な押しつけになりかねない。

 身近に危険や脅威が迫っているのだから、保護を強めようとするのは、理にかなっているところがあるのは否定できない。その理はあるわけだけど、一つ問題にできるのは、保護というのが何を意味しているかの点だろう。保護というのは一見するとよき光明のようなものだが、これは暗黒(ダーク・サイド)に転落することもなくはない。その暗黒に転落する可能性は決して低くはない。だから、それを危惧することは杞憂であるとはいえず、理があることもたしかだろう。

 保護という名目を、信用してうのみにしてしまいすぎるのも、それはそれで問題だと言えそうだ。もちろん、名目を信用することがすべからく間違いであると断じることはできない。ただそれは、よくよく検討して徹底的に調べあげたうえでのものであるならよいが、そうでないのならたんなる軽信におちいるおそれがある。こうした検討や調査の過程を十分に時間をかけてやったほうが、より現実的な結論が得られやすい気がする。

 犯罪者をとりしまるのもいるのだろうが、それと同時に、そのように仕立てあげられてしまうのもあるから、それが心配だ。そうはいっても、いったい何を心配することがあろうか、との批判もなりたつ。むしろ野放しになっているほうが心配ではないのか。たしかに、まったくの野放しになっているのだと危ないわけだけど、それは極端な話である。

 仕立てあげるというのは、ちょっと試みにやってみるといったようなことにはなりづらい。それよりも、何かしっかりとした基礎づけのもとに、方法としておこなわれる。そのさい、はじめの基礎づけがまちがうことがある。こうなると、結果としてできあがることもまたまちがうことになる。そこに確証がはたらきやすく、反証がはたらきづらい。たとえば、テレビなんかで、何々容疑者と大々的に報道されれば、誰しもがそのような目でその人を見てしまうものではないか。本当は罪がなかったとしても。

 治安をよくすることも大事ではあるけど、そのさい、効率を重んじてしまうのには警戒することもいる。効率的にものごとを進めてゆくのは、計算的な理性のはたらきだ。一見すると、計算することによって、見通しがよくなるかのような気もするが、それは計算不可能だったり、非効率だったりするようなものを切り捨てることによって成り立つ。したがってそれはたやすく野蛮化に転落して、暴力に行きつく。排斥するほうへ進む。

 近代において、こうした計算的な理性にとくに重きが置かれるようなんだけど、それにたいする抑制を多少なりともかけたほうがよさそうだ。方法によって揺るぎないものを求めてしまうところはあるが、そうではなくて、非方法によるありかたというのもあるのがのぞましい。それは試みとしてのありかたであり、できるだけ柔軟なふうにやってゆくものだろう。正確さをいちばんに優先させるのではなく、それをあるていど損なってしまいはするが、その代わりひどくぶつかり合ってしまうことを防げる。

 戦前や戦時中は、国というのを促成的に性急にこしらえてやってゆかないとならなかったから、そのさいに非国民という(いわれなき)負のしるしがつくられて、当てはめられてしまった。これは今からふり返るとまちがいだったわけである。その点をふまえると、今の時代は、そこまで差し迫った状況にあるとは特にいえそうにない。しかし、人によっては、できるだけ性急にことを進めるべきだ、との意見もある。ただそうすると、戦前や戦時中のように、また非国民といったような陰性の価値のしるしがつくられてしまいかねない。これをくり返すべきではないだろう。

 あまり偉そうなことを言える立場にはないのだが、性急さや直接さというのはなるべく避けるべきだという気がする。あえて時間をかけて、労力や費用をかけるというのもありではないか。少しでも気をゆるすと、たちまち労力や費用をかけないで、決めつけてしまうような、説明のエコノミーの原理がはたらく。説明を省略してしまう。この原理に従うのではなく、破ってしまったほうがときにはよい。加速度ではなく、遅速度を用いるといったあんばいだ。

戦争の否定

 戦争を禁じることによる平和のありかたがある。このありかたは、あらためて見ると、ひと筋縄では行かないところがありそうだ。もし、ごく素直に、戦争を禁じるようにして、それで平和が築かれるのであれば、それに越したことはない。しかし、ことはそう単純には運びそうにないのもたしかである。

 なぜことがそう単純には運ばないのだろうか。ひとつには、戦争を禁じることへの、斥力(せきりょく)みたいなのがはたらくことによりそうだ。反発をまねく。戦争を禁じることが一つの極であるとすれば、それにたいしてもう一つの極ができあがる。これによって両極のありかたになるわけだ。

 戦争を禁じるのは、反戦の立場に立つのであれば、ごくあたり前のことである。そこに疑問をさしはさむところはとくに見あたりそうにない。そのうえで、たとえば、学校なんかで、子どもにたいして、自分たちの国は戦争を禁じています、と教えたとしよう。その教えを、子どもたちは素直に受けとるかもしれない。しかし問題は大人たちにあるだろう。これをまちがった洗脳教育だとしたり、時代錯誤だと見なすこともできるのである。

 戦争や、それにまつわることを禁じるのは、一つの極ではある。しかし、その極だけでは話は終わりそうにない。もう一つの極を生み出してしまう。これは、ある面では、人間のもつ尺度を超えたところにあるような、自然史的な過程といえるだろう。

 戦争というのは一つの蕩尽であり消尽であるとされる。そうであるわけだから、それにとって代わるような、別の蕩尽や消尽をすることで、それにいたるのを防ぎ止めることができるかもしれない。

 たとえば、食べるものにも困るような、物が不足した貧しい状況がある。そうしたときには、あんがい争いやいさかいというのはどこかで歯止めをかけられる面がある(明日への希望があれば)。貧しさの克服という大目標を、みんなで共有しやすいからである。そうしたからっぽの世界をなんとか克服して、物であふれたいっぱいの世界になると、記号がものを言うようになる。記号的な世間話がとり交わされ、負のしるしをもつ者がやたらに叩かれるようになってしまう。そこには歯止めがのぞめそうにない。記号による欲望には物理的な限度がないからだ。

 今はいっぱいの世界であるとして、そこからふたたびからっぽの世界に簡単に戻ることはできない話ではあるだろう。非現実的だ。そのうえで、そもそもからっぽの世界とは、いったい何を示唆しているのだろうか。それは一つには、からっぽであるがゆえの豊かさみたいなものであり、また逆に、いっぱいであるがゆえの貧しさといったことはありえそうだ。もし、いっぱいであるがゆえの貧しさを抱えているとすれば、よりいっそう今よりもいっぱいになろうとしても、たんに貧しさが加速するだけなのではないか。何か擬似的であったとしても、多少なりともからっぽになるための手だてがいるのかもしれない。その手だてとは、(たんなる消費ではないような)蕩尽や消尽としての消費ということになりそうだ。

失言の一覧

 政権をになう人のあいだで、失言が目だつようになった。このツイートに一覧がのっていた。これは、安倍晋三首相が率いる政権の中枢に、たるみがおきてきている(ぶったるんできている)からだとの指摘がされている。たとえ失言とはゆかなくとも、強引な答弁をしてしまっているところも目につく。

 いまは政権の中枢にいるのかはわからないのだけど、石原伸晃氏の失言があった。じっさいにどういう文脈で使われたのかはよく知らないのだけど、金目でしょ、というものらしい。この金目でしょというフレーズは、そんなに悪くないような気がしてしまった。端的にものごとの本質をついているような気がする。予備校講師の林修氏の、(いつやるか)今でしょ、にも少し似ている。

直接に抗議するために現地へおもむくべきか

 北朝鮮の国民の人たちは、いちじるしく人権が損なわれてしまっている。ゆえに、人権をよしとするのであれば、その人は、ただちに北朝鮮へ行き、自分の命をかけて人権を擁護する運動をするべきだ。独裁政権への反対をしにゆくのがふさわしい。この意見は、正直いって、痛いところをつかれたという気がする。

 痛いところをつかれたとは思えるのだけど、しかしこうも言えるのではないだろうか。たとえ、北朝鮮独裁政権へ抗議しに行くべきなのだとしても、それはあくまでも理想にとどまる話なのではないか。理想ではまったくもってそうだけど、現実はまたそれとはちがっていてもよい。これは理想と現実のずるい使い分けであり、ほめられたことではないのはたしかではある。

 理想を現実化することが理想ではあるだろうけど、いっぽうで現実というのは妥協の産物でもある。妥協することが必ずしも悪いとは言い切れない。これは言い訳にすぎないのはたしかだけど、言い訳をしている人に人権が与えられないというのではないのもたしかだ。くわえて、言い訳をしていたとしても、それと並行して、人権をよしとする主張をしてもかまわない。表現の自由があるわけだし、とくに公共の福祉に反するわけではなさそうだ。唯一の絶対正義であるかはともかく、正義の一つだとして訴えるのはありだろう。

 現実による直接行動をとるのもよい。しかし、そのさい、武力などの力を行使するのはあまり賛同できそうにない。力を行使するための大義名分として、他国の政府による(その国の国民への)人権侵害を正すのを持ち出すこともできる。この大義名分に、欺まんがまったくないとは言えないだろう。武力などの力というのはできるかぎり使わないに越したことはないわけだから、それを使うための建て前として人権を持ち出すことにはあまり賛成できない。武力などの力の行使は下策であり、話し合いなんかによる説得のほうが上策だという気がする。甘いことを語るなと言われるかもしれないが。