憲法の改正の議論をしようとすることと、それをこばむこと―論争と信念

 共産党は、憲法の改正の議論すらしようとしていない。野党の国会議員はツイッターのツイートでそう言っていた。

 ツイートで言われているように、共産党憲法の改正の議論すらしようとはしていないで、憲法を守ることだけにこだわっているのだろうか。もしもそうだとすると共産党は信念護憲派に当たるだろう。

 そのほかにありえることとしては、共産党が議論をするつもりは十分にあったとしても、民主的で効果のある議論ができる保証がないために、議論をすることをこばんでいる見こみがある。そうであるとすると、たんに共産党を議論に引っぱり出すのではなく、民主的で効果のある議論ができるようにして行かないとならない。きちんとした公正な議論ができるように整えていないで、たんに共産党を議論の場に引っぱり出そうとしてもあまり意味はないことだろう。

 議論ということがもつ含意としては、議論をしさえすればそれでよいということではないものだ。議論とひと口に言っても、中身があるものもあるしないものもある。形だけやっても意味がないのだから、できるだけ水準の高い中身になるようにすることがいる。参加者が不公平にならないようにして、参加者の不満がおきないようにして、過程をいい加減にすっ飛ばすのではなくて、いかにとちゅうの過程に労力を注げるのかが重要だ。

 信念としての護憲派改憲派かや、論争としての護憲派改憲派かのちがいがある。これらのちがいはジャーナリストの星浩(ほしひろし)氏が言っていることである。信念としての閉じたものかそれとも論争を許す開かれたものかのちがいだ。

 議論をすることをよしとするのは論争をよしとするものだ。そのさいに大切なこととしては、議論をするとはいっても、成果を目ざすのではなくて、了解を目ざすようにすることではないだろうか。

 憲法についてだけではなくて、色々な政策についても、議論を重んじるようにしたい。そのさいに成果を志向するのではなくて了解を志向することにする。討議の倫理(ディスクルス・エティーク)を重んじて行く。

 成果ではなく了解を志向するのや討議の倫理を重んじるのはドイツの哲学者のユルゲン・ハーバーマス氏が言っていることだ。ハーバーマス氏は近代において成果の志向がよしとされすぎていることを批判している。それによって理性が退廃して道具化してしまう。わかり合うことではなく、自分の主張を強引に押し通すような道具の行為になり果てる。

 憲法についての話とはちがうが、財政の緊縮か反緊縮かの政策でも、成果を目ざすだけではなく、了解を志向するようにするのはどうだろう。そのさいに議論において討議の倫理を重んじるようにして論争して行く。

 成果を志向して目ざしてしまうと、実質をとることになる。実質の正しさがどうかということだ。実質がどうかとはちがうのが了解を志向することで、討議の倫理を重んじるようにすることによって、形式の手つづきをしっかりとふむことができる。

 実質の正しさとして憲法の改正が正しいとか、反緊縮が正しいとすることはできるが、それだと一か〇かや白か黒かの二分法におちいってしまいかねない。二分法におちいるのを避けるようにするためには、実質とは別に形式の手つづきをしっかりとさせて、それを一歩ずつふんで行く。そうするようにすれば、了解の志向になりやすくなり、理性が道具化して道具の行為になることを避けやすい。

 参照文献 『現代思想キイ・ワード辞典』鷲田小彌太(わしだこやた)編 『絶対に知っておくべき日本と日本人の一〇大問題』星浩(ほしひろし)