やるべきことまたはやるべきではないことと、じっさいにそれができないこと―理論と実践とのあいだのみぞ

 やるべきことがある。そのやるべきことはよいことだとされているから、やったほうがよい。やったほうがよいが、行動に結びつかない。そうしたことがある。

 やったほうがよいことだったり、やらないほうがよいことだったりするものがある。それらをそのままやれたりやらないようにしたりできれば、そこにまずいことはとくにない。

 やったほうがよいことや、やらないほうがよいことというのは、理論だととらえられる。それをそのまま実践できるのかというと、そうはできないことがある。理論と実践のあいだに隔たりがおきる。

 理論をそのまま実践できれば、理論でとられている状態に近づいて行ける。それを実践できなければ、理論でとられている状態と、はじめの状態とのあいだに、隔たりや開きがあるままとなる。

 理論と実践とのあいだに隔たりや開きがあるというのは、一つの現象だ。その現象がなぜおきているのかという要因が色々とあるだろうから、その要因を色々と見ていって、それにたいして手を打つようにする。そうすれば、うまく行けば理論と実践とのあいだの隔たりや開きを小さくすることができるだろう。

 たとえば勉強するべきだというのがあるとして、なかなかそれに手がつかずに、ついついほかのことをしてしまう。そうしたことがあるとして、それは勉強するべきだという理論と、じっさいにはそれに手がつかないという実践とのあいだに、隔たりや開きがあることをしめす。隔たりや開きが生じる現象がおきている。

 その現象があるのをまず認めて、その現象をそのままにするのではなくて、もうちょっとよい状態にしたいのであれば、何らかの変換の操作を打つことができる。手だてを打ってみる。変換の操作をしてみて、よい状態にできるのであれば、うまく行ったことになる。主となる要因にたいしてうまく手を打てたということになるだろう。

 やるべきだとかやらないようにするべきだというのは、何々するべき(ought)ということだから、それと何々である(is)とのあいだに隔たりや開きがあれば、よしとすることを行動に移せていないことになる。そのさいに、何々するべきだとかしないようにするべきだということのしきいを下げてしまう手がある。

 こうでなければならないというのは、そう思いこんでいるだけであって、必ずしも当てはまらないことがあるから、そうでなくてもよいとしてしまえば、しきいが下がって、隔たりや開きが小さくなる。そのようにしきいを下げてしまうと、中にはまずいこともあるから、すべてに当てはまることではないが、中にはさしさわりがないこともあるから、それについてはその手を選択肢の中に入れることができる。

 こうでなければならないというのは硬派なあり方だが、それは思いこみであって、必ずしもそうでなくてもよいと見なせるとすると、それは軟派だ。硬派であることがよいこともあるし、そうではなくて軟派なほうがよいことも中にはある。それはものによって異なるものだろう。軟派というのはいい加減なところがあるものだが、いい加減な方がよいということは中には(ものによっては)ある。あまり硬派になりすぎると、逆におかしくなることがないではない。その逆もまたしかりだが。

 いちばん軟派なのは、そのままでよいというものだろう。そのままのあり方でよい。これには一理あることはたしかだ。ありのままでよいとするのでよいこともあるが、そうではないこともまた少なくないから、それに気をつけないとならないのはまちがいない。ありのままでよいというのは、もっとも軟派なものだと言えるが、丸ごと肯定ができるのは現実的にはかなりまれなあり方だ。

 参照文献 『考える技術』大前研一 『創造力をみがくヒント』伊藤進 『自己変革の心理学 論理療法入門』伊藤順康(まさやす) 『目のつけどころ(が悪ければ、論理力も地頭力も、何の役にも立ちません。)』山田真哉(しんや)