二〇二〇年までに、新しい憲法を定める。憲法の改正をめざして行く。そのつもりにまったく変わりはない。首相はそう言っていた。
憲法の改正を堂々とうったえるのは、首相という立ち場からするとどうなのだろうか。少なくとも、憲法の改正をよしとする派と、そうではない派があるのだから、そのどちらかに偏らないで、なるべく中立になるように努めるべきではないだろうか。
首相が憲法の改正に大きく肩入れするのなら、広く国民の代表であるとは言いがたい。首相が憲法の改正に大きく肩入れをして、それを目ざすことは、国民の一部の代表であることをあらわしてしまっている。
朝日新聞の調べでは、憲法の改正にたいする国民の機運はさして高まっていないという結果が出ている。そこまで国民からの憲法の改正にたいする声は大きくはないのだろう。優先順位として、もっとほかに優先させることがいるものは少なくはない。
二〇二〇年までに憲法の改正を目ざすということだと、かなり急である。まだまともに憲法の改正についてを議論することができていないのは無視できることではない。
憲法の改正についてを議論するさいには、できるだけその議論がゆがめられないようにすることがいる。議論がゆがまないようにするには、きちんと議論のための規則を定めて、開かれた中で透明性のあるようにする。
与党である自由民主党は、広告を手がける最大手である電通と、戦後からの長きにわたるつき合いがあるという。自民党と電通は、持ちつ持たれつでやってきた。自民党は、電通の力を使って、自分たちの政権を保ったり、憲法の改正の広告を流したりするのなら、公正や公平なあり方とは言いがたい。
憲法の改正の議論をする前に、国民投票法のまずいところやおかしいところを正すようにすることがいる。それをしないで、憲法の改正だけを目ざすのなら、広告が偏って用いられることで、議論が大きくゆがんでしまいかねない。そうならないようにするためには、ゲーム(憲法の改正の議論)の規則をまっとうなものにすることが必要条件だ。
参照文献 『広告が憲法を殺す日 国民投票とプロパガンダ CM』本間龍 南部義典(なんぶよしのり) 『改憲的護憲論』松竹伸幸