レーダー照射のことについては、日本と韓国のどちらの国が悪いのかはわからないけど、できるだけ軽べつし合わないようにして、協力し合えるようにしたい

 日本の自衛隊の航空機に、韓国の海軍がレーダー照射をした。このことが日本と韓国のあいだでとり沙汰されている。

 これを見て行くさいに、日本の心がけとして、韓国にたいして、これまでの韓国はどうだったかということを抜きにするべきではないだろうか。これまでの韓国はどうだったのかというのをとってしまうと、それを新しくおきたことであるレーダー照射のことに当てはめてしまうから、見かたが偏ってくる。

 あくまでも新しくおきたレーダー照射のことは、それまでの韓国がどうだったかは抜きにするようにしたい。それを抜きにするのは、予断や先見を持たないようにすることだ。偏った見かたを避けるためには有効だ。

 新しくおきたレーダー照射の真相を見て行くには、どういうことがおきたのかがはっきりとするとよい。それは少しずつ明らかになってくるものかもしれないが、おきたことをふり返るのが十分に行なわれるようにしたい。それが不十分だと、日本と韓国のどちらが悪いのかを決めることが確かにはなりづらい。

 日本には日本の落ち度があって、正しさがある。韓国には韓国の落ち度があって正しさがある。落ち度や正しさは、認識と行動においてのものだ。どういった落ち度があって、どういった正しさがあるのかで、その差し引きがある。落ち度がゼロということはないだろうし、落ち度だけということもないだろう。

 落ち度といっても、すごく大きな落ち度と言えるかもしれないし、そうではなくてごく小さな落ち度にすぎないとも言えるのがあって、同じ一つのことであってもちがう見かたがとれることがある。

 かりに韓国が悪いのだとしても、二つのあり方がある。韓国が悪かったさいに、韓国はその悪さを認めないとすると、認めないでいられるか、それともいられないかの二つがある。反証逃れ(言い逃れ)ができるかできないかだ。もし反証逃れができるのだとすれば、それを韓国はするだろうから、有無を言わせない具体の証拠がないかぎりは決着はつかない。

 もし日本が本当に新しくおきたレーダー照射のことについて真相を明らかにしたいのであれば、開かれた中でことを進めるべきだ。たとえ日本にとって都合の悪い事実であっても、それが事実であるのなら認めることがいる。日本に落ち度があったのであればそれを認めるようにしたい。

 日本が完ぺきに正しくて、韓国が完ぺきにまちがっていたというのはとりあえずとらないようにして(脇に置いておいて)、韓国を一方的に裁くのではなく、たずねるようにする。韓国の言い分も受けとめるようにする。日本が一方的に自分たちの言い分を言うのではないようにしたい。そうすることによって、新しくおきたレーダー照射についてを、創造性をもってとり組むことができる。

 いまの日本の首相による政権に、開かれた中での韓国とのやり取りをのぞめるかというと、それはとくにのぞめるものではない。もし韓国が悪いのであれば、それはそれで(そのやり方でも)よいかもしれないが、お互いの国どうしで仲よくやって行く道を探るようにすることが、日本の益になることだから、できるだけその道をとるようにしてほしいものだ。

 韓国はレーダー照射のことで、悪いことをしたのにも関わらず、謝ろうとはしない。日本としてはそうした見かたはできるが、これはお互いさまのことだろう。もし日本に悪いところがあったのだとすれば、日本が韓国に謝ることがあってよいのがある。それをしてもよいのはたしかだ。謝れないのは日本もまたそうなのである。悪いことをしていないのであれば謝らなくてもよいけど、謝ることをすることによって、(日本が謝るのであれば)日本の国の成長につながるのだから、謝れないよりはずっとよいことだ。