日本の国のじっさい的なあり方が、維持されるだけの値うちがまちがいなくあると見なすのにはうなずきづらい(国の政治を主として、おかしくなったりめちゃくちゃになったりしているところが目につく)

 性の少数者である LGBT には生産性がない。与党である自由民主党の議員はこう言ったが、これについてうなずけるところがあると、テレビ番組の出演者は言う。

 なぜ自民党の議員の言うことにうなずけるところがあるのかと言えば、たしかに日本では深刻な少子化がおきているからだ。人口の減少が危ぶまれている。そこで生産性を持ち出すのはまちがったことではない。

 自民党の議員の発言や、それにうなずけるとするテレビ番組の出演者の言うことには、個人としてはよしとすることはできそうにない。

 たしかに、自民党の議員や、それをよしとするテレビ番組の出演者が言うように、日本では深刻な少子化がおきていて、人口の減少が危ぶまれているのはある。気楽に楽観視することでまちがいなく何とかなるとは言えそうにない。しかし、少子化や人口の減少がおきているとすれば、むしろ(逆に)生産性というのを持ち出すべきではないのではないか。

 生産性というのは、色々な意味あいがあるものではあるが、かりにそれをつくることであるとすると、効率よくものをつくればよいとは限らない。人をつくると言うとそうとうに語弊があるが、生産性が高いというのと効率がよいというのをとるよりも、不公平さを改めるほうがのぞましい。

 ものをつくる生産性において、生産性が高い人と低い人を分けてしまうのは、差別につながってしまいかねない。それをとらないようにして行くためには、適正なあり方をとるようにすることがいる。

 適正なあり方としては、生産性が高いか低いかで人を分けてしまうのではなく、公平に人を見たり、贈与によったりするようにする。誰しもが衣食住の基本となる必要を満たせるようにする。健康に暮らして行けるように、衣食住の福祉がとられることがいる。それらがとられることによって、人はそれぞれの生産性を少しずつ発揮して行けるようになるのではないか。

 日本では深刻な少子化や人口の減少がおきるとして、そうであれば、国としての生産性を上げるのを重んじるのではなく、むしろ個人の私の一人ひとりにおける生活を充実させるようにすることが、功を奏する手だてにつながる。もっとも、必ず功を奏するとは言えないかもしれない。

 確かな手だてとは言えないが、日本では、深刻な少子化や人口の減少がおきるまずさがあるのと共に、政治における適正さがいちじるしく損なわれているし、公平さがないがしろになっている。政治を含めて、色々とおかしくなっているところを改めて、直接に少子化や人口の減少を何とかしないようにすることが、回り回ってその対策になる。付け焼き刃の表面的な手だてに頼ったり、弱者や少数者をあてつけにして悪玉化や贖罪の山羊(スケープゴート)にしたりするのは逆効果になりかねないので気をつけたい。